2022/03/30
戸崎城/千葉県君津市
戸崎城は、久留里城の北西約4kmにあった河岸段丘上の城です。訪問日は2022年2月23日です。

戸崎城は、湾曲する小櫃川西岸の段丘上にありました。
城跡へは南側から登りましたが、あくまで駐輪の都合です。
皇産靈神社のある高台が、主郭の櫓台と見られます。
主郭は南西から北にかけて横堀と土塁で囲まれています。
西側は平坦地が広がり、住宅や畑となっています。
その所々に堀や土塁の痕跡が残っています。

1 南側の広い路肩
地図上で城内には西側から行けますが・・・
道が細く、停められる所がありません。
南側のココの路肩が広く停められます。

2 登城口
城内へは、神社の参道を登ります。
道は2本ありますが、左側が当たりです。

3 横堀
参道を登ると、すぐに鳥居が現れます。
白セメント道だからと車で登ると後悔しますw
左側の堀底を進むと、台地上に出ます。
鳥居から登ると、主郭の神社前に出ます。

4 鳥居から上がった所
鳥居から上がると、土の壁に囲まれた道になります。
あまりに整っているので、どこまでが遺構なのか?です。

5 皇産靈神社の鳥居
神社の参道が真っすぐ高台に伸びます。
これ絶対にお城の時には無かった道ですw
でも、近道なのでここから登ります。

6 皇産靈神社
変わった名前なので、少し興味が沸きググりまくりました。
読み方は「みむすび」や「うぶすな」など、場所によりバラバラです。
ここでは「こうさんれい」と読むようです。
祭神は天御中主神・高皇産靈神・神皇産靈神の造化三神です。
祭神として祀る神社は珍しく、天地開闢の時に現れた神様だそうです。
『古事記』や『日本書紀』でも、ただ姿を現したとだけ記されています。
日本全国にある神社ですが、千葉が特に多い感じです。

7 城址碑
現地では特に感慨の無かった神社ですが、境内にこれがあります。
側面には、城についての説明文が彫られています。

8 神社の奥
いきなり櫓台に登りましたが、本来はこっちから登るハズ。
奥に向かって土塁が伸び、右脇に平坦地が広がっています。

9 横堀
神社を出てすぐ、堀底に下りる所があります。
お堀

まぁ、歩きやすいとは言えませんでしたが。

10 平坦地
堀底は左へ折れ、その先で平坦地に出ました。
そのまま外に出ると、民家の庭に侵入しそうな勢い

それは不本意なので周りを探ると、右側の藪の奥に堀が続いていました。

11 横堀
ほんの少しの藪を抜けると、竹林内に横堀が続いていました。
下草が無いので、とてもハッキリと堀底を堪能できます。
とはいえ、全く手付かずの竹林ではなさそうです。
そんな竹林を嫌という程味わった今シーズンなのでわかります


12 堀の終端
堀底をずんずん進むと、この開口部に至ります。
この向こう側は急斜面となっており、堀はココで終わっています。
どうやら台地端をこの堀で分断した崖端城のようです。

13 土橋と虎口
堀の終端手前に、堀をせき止めるダムっぽい地形があります。
その脇には土を掻き分けたような地形・・・
ここが土橋と虎口です。
主郭を1周して来て、出入口らしき所はここだけでした。

14 主郭
虎口から上がった所が主郭です。
地図で見るとそうでもなさそうですが、実際はかなりの広さです。
主郭だけでも広いですが、西側の台地上も城域です。
そう考えると、かなり大規模なお城だったことになります。

15 主郭南東部
虎口から外周に沿って時計回りに進むと、南東側はこんな感じです。
全般的に倒れた竹が無造作に積もっていて、とても歩きづらかったです。

16 主郭内部から見た神社
主郭を1周して来て神社裏まで戻って来ました。
しかし、竹一色な風景なので、今自分がどこにいるのか混乱しました。
GPSで位置を確認し神社と認識しましたが、最初は民家だと思っていました。
神社のある高台の脇は、堀で囲まれているように見えます。

17 主郭西側の土塁
今度は堀の上にある土塁上を歩きました。
高さも幅も2m無いですが、形はハッキリとわかりやすいです。

18 土塁上から見た横堀
堀底を歩くのもイイですが、上から眺めるのもイイです

下草の無い竹林では、堀の折れもクッキリ見えます。

19 土塁上から見た虎口と土橋
北西端の虎口は堀の開口部が近く、寄せ手にスペースを与えていません。

20 西側台地上の堀跡
堀底→土塁上と主郭を2周した後は、西側の台地上を散策しました。
パッと見は平らな畑ばかりですが、所々こんな感じです。
この先にも櫓台っぽい木のこんもりや、堀跡っぽい道が見られます。
◆歴史◆
戸崎玄蕃が守る里見家の城でした。
ググってもあまり出てこないので、ほぼ城址碑の内容です。
城址碑側面には
「戸崎は元富崎と呼ばれたが、里見氏の臣戸崎玄蕃が是◆に築城し
戸崎城と称して以来富崎を戸崎と改めたと言われる。
永禄、天正の頃、小田原北条氏は里見氏と数十年に亘って抗争を続け
当地もしばしば激戦場となった。
天正18年(1590)8月、豊臣秀吉は北条氏を滅ぼし
里見氏もまた安房1国に減封され城は遂に廃されたと伝えられる。」
と彫られています。
◆は雨冠に匆に見えますが、何という字なのかが?です

戸崎玄蕃は、天神山城の城主としても登場します。
さらにググると、造海城に久しく拠ったと『上総国誌』に記されています。
天神山城と戸崎城の前後関係は?です

ちなみに造海城に拠ったのは戸崎正勝、天神山城城主は戸崎勝久です。
どちらも「玄蕃」と名乗っており、親子かもしれません。
戸崎玄蕃でググると、鳥取県倉吉の北野神社創建者としても出て来ます。
そこでは尼子家の家老だったと書かれていますが、江戸時代のお話です。
里見家は1614年、大久保忠隣の改易に連座し安房から伯耆へ移されました。
その場所が倉吉だったので、恐らく里見家臣の戸崎玄蕃と思われます。
久留里城の向城だった説もあります
1560年、北条氏康が久留里城を攻めました。
この時「上総久留里に向かいて新地を取り立て」と築城について記しています。
また、正木時茂も「敵、久留里に陣を張る」と上杉謙信に助けを求めています。
この時に築かれた久留里城の向城がどこなのかは定まっていませんが・・・
戸崎城は久留里城の北北西約4㎞にあり、久留里側に川が流れています。
また、神社のある櫓台が南端にあり、虎口は北側にあります。
城の向きは、どうみても南に備える構造です。
この説、個人的にはなかなか有力だと思います。
所在地:千葉県君津市岩出 GPSログダウンロードページ
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