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松尾城/長野県飯田市

松尾城は信濃守護・小笠原氏の居城でした。
訪問日は2013年7月29日です。

松尾城/③城址公園の入口
▲城址公園の入口

松尾城は鈴岡城のすぐ北隣にあります。
間には比高で50m位の谷があり、間を川が流れています。
その川には橋が架けられており、行き来出来るようになっています。
両城跡はひとまとめに「松尾鈴岡公園」となっています。
・・・鈴岡城の方は鈴岡公園なんて彫られた石碑ありましたけどw
松尾城は二の丸の手前に駐車場があります。

松尾城/①公園の案内図
▲案内図 拡大表示

入口には図入りの説明板が2枚並んでいます。
この2枚を見比べながら散策すると、とてもわかりやすいと思います。

まずは案内図の方から。人の頭にはコッチの方がわかりやすいですね。
ザックリとどっちに何があるのかが把握できます。

松尾城/②等高線の測量図
▲測量図 拡大表示

そのお隣にあるのが、等高線バッチリな測量図?です。
地形の起伏なんかが手に取るようにわかって、まるで空の上から見ている感じ。
でも、こうやって見ると、松尾城の方はかなり改変されているようですね。

松尾城/⑤城址碑
▲城址碑

駐車場からまっすぐ歩くと、割とあっさり城址碑に出くわします。
・・・ということは、ココが本丸ですね。
西から東へ張り出した舌状台地の先端部分にかなりの広さの郭があります。

松尾城/⑥鈴岡城の出丸
▲南側に見える鈴岡城出丸の展望台

その本丸から右側(南)を見ると、見下ろす感じの山があります。
その山に屋根付きの展望台が見えます。
これは鈴岡城の出丸にある展望台です。
鈴岡城と松岡城の小笠原氏が争った歴史の説明板がある所です。
松尾城は鈴岡城から丸見えだったんですね。

松尾城/④城址公園の入口から振り返った所
▲堀跡?

あまり遺構が見当たらないように感じましたが、
写真を見てたらいくつか堀っぽいのが。
この写真は場所は忘れましたが、松尾城内で撮影したものです。
空堀の底を道が通っている感じですね。

松尾城/⑦空堀
▲空堀

こっちも場所を忘れましたが・・・二の丸と本丸の間でしょうか。
かなり埋められて浅くなってはいますが、幅がかなりあります。
すぐ隣が敵の城なので、本当はもっと厳重な造りだったんでしょうね。


◆歴史◆

※自分で書いてても混乱するので、色を分けておきます。
 松尾小笠原家は赤鈴岡小笠原家は緑府中小笠原家は青です。

築城年代は不明ですが、小笠原氏の本拠でした。

鎌倉時代末から室町時代はじめの小笠原貞宗は松尾城を居城としていました。
小笠原貞宗は足利尊氏に味方し、その功により信濃守護となりました。
小笠原氏で最初に信濃守護となった人物です。
小笠原貞宗は後に府中に進出し、井川館を築いて本拠を移しました。
松尾城の主はわかりませんが、
隣の鈴岡城に貞宗の次男・宗政が入り分家となりました。

1400年、大塔の戦いで小笠原軍が大敗しました。

家督を継いだ次兄・長秀が、北信濃の連合軍と戦って大敗を喫しました。
小笠原長秀は当時流行りのバサラ大名でした。
小笠原氏は信濃南部が本拠ですが、
守護ともなると国全域を掌握しなければなりません。
そのため、信濃北部の村上氏や坂梨氏などを善光寺で饗応したのですが・・・
相変わらすのバサラっぷりで反感を買い、ついに戦となりました。
この戦で守護側が大敗を喫し、小笠原氏は守護の地位を剥奪されました。

1405年、小笠原政康が家督を継ぎました。

長兄・小笠原長将が府中を継ぎ、三男の政康が伊那郡を継いだようです。
小笠原政康は鈴岡城を居城としました。

1425年、小笠原政康が信濃守護に任命されました。

1442年、小笠原氏の内紛が始まりました。

守護・小笠原政康が没すると、嫡男・宗康が惣領と守護を継ぎました。
これに異を唱えたのが、政康の兄の子で府中小笠原家の持長でした。
小笠原氏の家系では府中家が嫡流だったのです。
そのため鈴岡の宗康と府中の持長の間で戦が始まりました。
宗康はすぐ隣の松尾城主で弟の小笠原光康に応援を頼みました。
その中で、自分が討ち取られたら惣領は光康が継ぐ、という約束をしました。
そんな約束をしないと応援してくれない兄弟仲だったのでしょうか?

1446年、小笠原光康が家督と守護職を継ぎました。

府中家の持長との戦いで小笠原宗康が討死しました。
そのため、生前の約束通り、松尾城の小笠原光康が惣領と守護職を継ぎました。
以後は光康持長が争いました。
宗康の子・政秀光康が引き取って育てました。

守護職を継いだ光康の子・家長は、
将軍・足利義政の命令により各地に兵を出しました。
家長は丁度応仁の乱の頃の当主です。
1473年に東美濃に出兵し、土岐郡と恵那郡の一部を支配下に収めました。
1475年には近江の京極氏のお家騒動にも介入しています。
また、1478年には尾張の織田氏の援軍として再び美濃に遠征しました。
かなり行動範囲が広かったんですね!

1480年、小笠原家長小笠原政秀に討たれました。

父・小笠原宗康が討たれてからは鈴岡家で育てられた政秀でしたが・・・
従兄弟にあたる鈴岡城の守護・小笠原家長を討ちました。
親が約束したとはいえ、自分も守護の子ですからね。
四方八方で活躍する従兄弟を見ていると、本当は自分が、
という想いがあったかもしれません。

両家の対立が表面化したのは伊賀良荘の領有権争いです。
伊賀良荘は現在の下條村と阿智村を合わせた領域で、鈴岡の南隣です。
下条氏が居ましたが、1470年頃に当主に跡継ぎが無く絶えました。
最終的には鈴岡・松尾両家の祖である小笠原政康の三男・康氏が
下条氏を継ぎましたが・・・
ここから鈴岡家と松尾家の争いが始まりました。

1493年、小笠原定基が鈴岡城の小笠原政秀を滅ぼしました。

1月4日に松尾城で鈴岡家の政秀とその嫡男・長貞を暗殺し、
鈴岡小笠原家を滅ぼしました。
新年ということは、長年の争いを和解しようと宴を催したのでしょうか?
詳しい事はわからずじまいです。以後の鈴岡城は松尾城の支城となります。

1534年、小笠原定基が甲斐へ逃れました。

小笠原定基小笠原長棟との戦に敗れ、
定基は武田信玄を頼って甲斐へ逃れました。
これにより100年近く続いた小笠原氏の内紛が終わりました。
小笠原長棟の次男・信定が鈴岡城の城主となり、
鈴岡小笠原家を復興させました。

1554年、小笠原信貴が松尾城に復帰しました。

武田信玄が信濃に侵攻すると、小笠原長時信定は抵抗しました。
深志城が攻め落とされた後、
長時は鈴岡城に逃れて信定とともに抵抗し続けました。
しかし、やがて鈴岡城も攻め落とされると、
長時信定は京へ逃れました。
この戦いでは小笠原信貴が先鋒を務め、旧領の松尾城に復帰しました。

1582年、武田勝頼が織田信長に滅ぼされました。
越後に逃れていた小笠原長時の弟・貞種が、
上杉景勝の助力を得て深志城に復帰しました。

同年、織田信長が本能寺の変で自害しました。
甲斐・信濃両国では、武田旧臣により織田家臣が排斥され、
空白地帯となりました。
そのため、周囲の徳川家康、北条氏直、上杉景勝らによる
争奪戦が繰り広げられました。

深志城は徳川家康の意を受けた小笠原貞慶(長時の子)が
叔父・貞種から奪いました。
松尾城の小笠原信嶺は武田氏滅亡時から徳川家康に仕えており、
所領を安堵されています。

1590年、廃城となりました。

小笠原信嶺は、徳川家康の関東移封に伴って武蔵本庄へ移りました。
小笠原氏が移った後は、豊臣秀吉の家臣・毛利秀頼が
飯田城10万石の領主となりました。


所在地:長野県飯田市駄科

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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