2015/02/07
鈴岡城/長野県飯田市
鈴岡城は信濃守護・鈴岡小笠原家の居城でした。訪問日は2013年7月29日です。

▲案内図 拡大表示
二の丸の駐車場脇にあった案内図です。
こうやって見るとそれそれの曲輪がかなりはっきり区別できるのがわかります。
その曲輪と曲輪の間が広く空いているのは、しっかりした堀があるからデスヽ(´∀`)ノ
図だけではその規模がイメージしづらいかもしれませんが・・・

▲堀底の道から見上げたところ
はじめに城内に入る所から圧倒されます。
写真は城内に入ってすぐですが、堀底の道から城塁を見上げる程です。
駐車場に停める前からワクワクさせてくれたお城です


▲第4駐車場から見た二の丸
なるべく歩きたくないということで、二の丸にある第4駐車場にクルマを停めました。
ここはかな~り広い平らな広場となっています。
城跡がよく学校になっていたりしますが、グラウンドにするには丁度いいですね。
ここがそんな運命を辿らなくて本当によかったです。


▲城内いたるところにある堀
そして圧巻は、たぶん完存しているであろう堀です。
曲輪と曲輪の間は、深さ5~10mはあろうかという堀で区切られています。
それぞれの曲輪の外周をまわりながら、存在感たっぷりな堀を堪能しました。

▲城址碑
もちろん、これだけしっかりした城跡ですから城址碑もあります。
ただ、文字は殆ど見えません。
鈴岡公園碑の方が文字がくっきりしていて見やすいですが・・・
もっと心の目を鍛えなければいけませんね


▲充実した説明板
守護の居城ということで、説明板も随所にありました。
イラスト的な案内図もあれば、バッチリ等高線の入った図もあります。
どっちの図も大好きデス

北の出丸の所にはお隣の松尾城との間で起きた出来事について書かれていました。
谷1つ隔てただけのお城どうしで数十年もいがみ合っていたなんて・・・
歴史ってやっぱり面白いヽ(´∀`)ノ
◆歴史◆
※自分で書いてても混乱するので、色を分けておきます。
鈴岡小笠原家は赤、松尾小笠原家は緑、府中小笠原家は青です。
南北朝時代に小笠原宗政により築かれました。
築城された年は不詳ですが、南北朝時代に小笠原貞宗の次男・宗政により築かれました。
宗政は分家としての鈴岡小笠原家を興した以外の事跡はわからずじまいです。
後に小笠原政康が居城としますが、宗政の子孫ではありません。
政康は府中小笠原氏の三男なので、もしかしたら養子として鈴岡城に来たのかもしれません。
1442年、守護・小笠原政康が没すると、嫡男・宗康が惣領と守護を継ぎました。
しかし、これに異を唱えたのが、政康の兄の子で府中小笠原家の持長でした。
小笠原氏の家系では府中家が嫡流だったのです。
そのため鈴岡の宗康と府中の持長の間で戦が始まりました。
宗康はすぐ隣の松尾城主で弟の小笠原光康に応援を頼みました。
その中で、自分が討ち取られたら惣領は光康が継ぐ、という約束をしました。
そんな約束をしないと応援してくれない兄弟仲だったのでしょうか?
1446年、漆田原の戦いで宗康は持長軍に討たれてしまいました。
持長はこれで晴れて惣領と守護職を継げると喜んだでしょうね。
でも、兄弟の約束により光康が惣領と守護職を継いだため、以後は光康と持長が争いました。
宗康の子・政秀は光康が引き取って育てました。
守護職を継いだ小笠原家長は、将軍・足利義政の命令により各地に兵を出しました。
家長は丁度応仁の乱の頃の当主です。
1473年に東美濃に出兵し、土岐郡と恵那郡の一部を支配下に収めました。
1475年には近江の京極氏のお家騒動にも介入しています。
また、1478年には尾張の織田氏の援軍として再び美濃に遠征しました。
かなり行動範囲が広かったんですね!
1480年、小笠原政秀が松尾城の小笠原家長を討ちました。
父・小笠原宗康が討たれてからは鈴岡家で育てられた政秀でしたが・・・
従兄弟にあたる鈴岡城の守護・小笠原家長を討ちました。
親が約束したとはいえ、自分も守護の子ですからね。
四方八方で活躍する従兄弟を見ていると、本当は自分が、という想いがあったかもしれません。
両家の対立が表面化したのは伊賀良荘の領有権争いです。
伊賀良荘は現在の下條村と阿智村を合わせた領域で、鈴岡の南隣です。
下条氏が居ましたが、1470年頃に当主に跡継ぎが無く絶えました。
最終的には鈴岡・松尾両家の祖である小笠原政康の三男・康氏が下条氏を継ぎましたが・・・
ここから鈴岡家と松尾家の争いが始まりました。
1493年、小笠原政秀が松尾城の小笠原定基に滅ぼされました。
1月4日に松尾城で鈴岡家の政秀とその嫡男・長貞が暗殺され、
鈴岡小笠原家が滅ぼされました。
新年ということは、長年の争いを和解しようと宴を催したのでしょうか?
詳しい事はわからずじまいです。以後の鈴岡城は松尾城の支城となります。
1534年、小笠原長棟が内紛を終結させました。
小笠原長棟が小笠原定基を破り、定基は武田信玄を頼って甲斐へ逃れました。
これにより100年近く続いた小笠原氏の内紛が終わりました。小笠原長棟の次男・信定が鈴岡城の城主となり、鈴岡小笠原家を復興させました。
1554年、武田信玄により落城し、松尾小笠原氏が復帰しました。
武田信玄が信濃に侵攻すると、小笠原長時と信定は抵抗しました。
深志城が攻め落とされた後、長時は鈴岡城に逃れて信定とともに抵抗し続けました。
しかし、やがて鈴岡城も攻め落とされると、長時・信定は京へ逃れました。
この戦いでは小笠原信貴が先鋒を務め、松尾城に復帰しました。
信定は長時とともに京へ逃れた後、同族の三好長慶のもとに身を寄せました。
そして1569年、京で三好一族とともに本圀寺の足利義昭を襲った際に戦死しました。
長時はその後、越後から会津へ移り、蘆名氏のもとで軍師を務め、会津で没しました。
1582年、武田勝頼が織田信長に滅ぼされました。
越後に逃れていた小笠原長時の弟・貞種が、上杉景勝の助力を得て深志城に復帰しました。
同年、織田信長が本能寺の変で自害しました。
甲斐・信濃両国では、武田旧臣により織田家臣が排斥され、空白地帯となりました。
そのため、周囲の徳川家康、北条氏直、上杉景勝らによる争奪戦が繰り広げられました。
深志城は徳川家康の意を受けた小笠原貞慶(長時の子)が叔父・貞種から奪いました。
松尾城の小笠原信嶺は武田氏滅亡時から徳川家康に仕えており、所領を安堵されています。
1590年、廃城となりました。
松尾城の小笠原信嶺が徳川家康の関東移封に伴って武蔵本庄へ移りました。
小笠原氏が移った後は、豊臣秀吉の家臣・毛利秀頼が飯田城10万石の領主となりました。
所在地:長野県飯田市駄科
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