2015/02/04
知久平城/長野県飯田市
知久平城の跡は住宅街となっています。訪問日は2013年7月29日です。

▲見取図 拡大表示
まずは現地にあった見取図です。
この手の図は色んな名前で呼ばれてますよね。
現地では見取図と書かれていましたが、案内図だったり概要図だったり・・・
図は図なので、呼び方よりも中身が大事ですがw
この図で見ると、あちこちに堀や土塁の跡が残っていそうですね。
あぁ、現地でもっとしっかりこの図を見ておけばよかった・・・
これから訪問される方は、ぜひこの図をプリントアウトしてってクダサイ。

▲下久堅小学校
上の図は下久堅保育園の前にありますが・・・
地図で目立つのは、そのお隣にある小学校です。
まずはこの小学校を目指しましょう。

▲下久堅保育園
小学校の北隣に保育園があり、その前に説明板があります。
こうやって見ると、小学校は四の郭?の半分弱です。
かなり規模の大きなお城だったんですね!

▲本丸まで300m
保育園の近くにあと300mという案内が。
長辺300mでもかなりの規模ですが、図では保育園が真ん中くらいです。
とてつもないw

▲本丸跡にある説明板 拡大表示
案内に従って北へ進むと、会社の駐車場らしき所に説明板がありました。
本丸の様子をよく見たいな~なんて思いましたが・・・
ふつうに会社の敷地になっていたので、説明板だけ撮って次へ進みました。
◆歴史◆
鎌倉時代はじめ頃に知久氏により築かれました。
知久氏は平安時代末頃に諏訪敦俊が知久姓を名乗ったことに始まりました。
諏訪敦俊は清和源氏の中津氏から信貞を養子に迎えました。
知久氏が当地に拠点を構えたのは、1221年の承久の変の後と考えられています。
1533年までに知久氏は神之峰城を築き、本拠を移しました。
神之峰城も築城年が不明確ですが、史料に初めて登場するのが1533年です。
これは丁度、府中小笠原家が松尾小笠原家を甲斐へ追放する直前です。
知久氏は松尾小笠原家に味方したため、府中小笠原家から攻撃を受けました。
知久氏は諏訪氏の支援を受けて凌いでいました。
本拠を神之峰城に移した後も、知久平城は支城として使われ続けました。
1546年、知久頼元は飯田城の坂西伊予守と戦って版図を拡大。
上野の座光寺氏も配下に加わるなど、知久氏の最盛期を築き上げました。
1554年、武田軍により攻め落とされました。
1542年に武田軍は諏訪氏を滅ぼしましたが、知久氏は武田信玄に従いました。
1553年の第一次川中島合戦までは従いましたが、神之峰城に戻ると反武田の兵を挙げました。
高遠城主の秋山信友は兵を退くよう説得しましたが応じなかったため、鎮圧されました。
知久頼元や座光寺貞信らは生け捕りにされ、翌年甲斐で処刑されてしまいました。
頼元の子の頼氏・頼純は逃れ、徳川家康に仕えました。
武田軍に追われた知久氏の所領は、吉岡城の下条信氏に与えられました。
1582年、菅沼定利が城主となりました。
織田・徳川連合軍により武田勝頼が滅ぼされると、菅沼定利が知久平城の城主となりました。
知久頼氏も知久平69ヶ村6千貫の所領を与えられ、領主としての知久氏が復興しました。
1588年、廃城となりました。
1585年、知久頼氏は第一次上田合戦にも参戦しましたが、その直後に自害を命じられました。
理由は不明のままです。
時期を同じくして南の下条氏でもお家騒動が起きているので、何かあったのでしょう。
それが何なのかはわからないままです・・・
知久氏は頼氏の子・則直が関ヶ原の戦いの後に3千石で召し出され、旗本として復興しています。
知久氏が滅んだ後、菅沼定利は居城を飯田城に移して知久平城を廃城としました。
知久平城は飯田城の改修資材として利用されました。
その菅沼定利も1590年に徳川家康が関東に移された際に、上州吉井に移っています。
所在地:長野県飯田市下久堅
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