2015/02/02
吉岡城/長野県下條村
吉岡城は国道が貫通する丘にありました。訪問日は2013年7月29日です。

▲概観図拡大表示
城内の石碑にある概観図を切り抜いて拝借しています。
この図から、北ノ沢川と南ノ沢川に挟まれた東西に長いお城だということがわかります。
平面では分かりづらいのですが・・・

▲北側
国道を跨ぐ橋から見下ろすと、北側は「ひさわ」交差点があり、すぐに橋となっています。
橋から国道までの高さもかなりありますね。

▲南側
橋の上で回れ右(回れ左でもok)すると、北側と殆どおんなじ風景です。
つまり、北も南のかなりの断崖絶壁に囲まれているということですね!

▲本丸橋
そして、国道を跨いでいる橋の名前が「本丸橋」です

さらに、国道国道と連呼している切り通しこそ、二の丸と本丸を隔てる堀切の跡です。
こうして見ると、かなり規模のデカイお城だったことがわかります。

▲本丸の様子
ただし、あまりに規模がデカ過ぎて、お城だったのがわかりにくいかもしれません。
本丸跡とされる場所には普通の広さの公園があるばかりです。
あまりに大き過ぎたため、都合の良い平坦地として畑なりに使われたのでしょうか。

▲石碑
そんな公園の北寄りにいくつかの石碑があります。
黒くて平らでピカピカに光る、とても高そうな石で出来た概要図の石碑です。
すぐ近くには、お城の歴史が彫られた同じような石碑があります。

▲土塁ががが・・・
ただこれだけだと今は何も無いただの城跡となってしまう・・・
そう思ってキョロキョロしていたら、西の方に何やら土を盛った形跡が見えました。
もしや土塁!そう思って近づくと、横一線に盛られた土がありましたヽ(´∀`)ノ
でも・・・何だか・・・様子が・・・変!
その土塁の真ん中に小さなショベルカーが1台鎮座しているではありませんか。
あぁぁぁ、何てコトを


▲殿郭
本丸西側の土塁はもしかすると今頃はもう・・・かも。
その更に西側はうっそうとした林になっており、小さな神社がありました。
その手前が、何やら、大きく、凹んで、いるのは、気のせい、では、ありません!

▲堀切
まさか公園のすぐ脇にあるとは思いもよりませんでしたが、堀切です。
角度がかなり緩くなっていますが、往時はきっと登れない程の鋭さがあったのでしょう。
意外な所に意外なモノがあるもんです。

▲城址碑
さて、写真の順番的にココにあるということは、城址碑は一応本丸の中にあるようです。
・・・色々インパクトが強かったので、城址碑の事はあまり覚えていないんです

他のお城でこれだけ立派なのがあれば、大将首でも獲ったかのようにはしゃぐんですけどねw
駆け足で見て回ったのでかなりザックリしています。
今回紹介しているのが、ほぼ本丸だけですので。
国道の反対側の二の丸も含め、ちゃんと見ればかなり見所の多いお城だと思います。
◆歴史◆
1473年、下条康氏により築かれました。
下条氏はそれまで大沢城を本拠としていました。
しかし、当主に跡継ぎが無いまま家系が絶え・・・
すぐ近くの松尾小笠原家と鈴岡小笠原家が下条氏の遺領を巡って争うようになりました。
多分・・・ですが、この争いに終止符を打ったのが下条氏康です。
下条氏康は小笠原氏の一族・・・というより、争っている両家の祖父の弟に当たる人物です。
長兄の孫である鈴岡家と、次兄の孫である松尾家の争いに心を痛めていたかもしれません。
康氏は下条氏の名跡と遺領を継ぐと、その3年後には吉岡城を築いて移りました。
前の本拠の大沢城とは規模がまったく桁違いです。
さすが守護家!鈴岡城、松尾城にも引けを取らない規模です。
子の家氏、孫の時氏の代には南伊那一帯を治め全盛期を築きました。
1554年、武田信玄の軍門に降りました。
しかし、武田信玄が伊那地方に侵攻すると状況が一変します。
小笠原氏は府中家・鈴岡家ともに武田軍に抵抗しますが、敗れて信濃を去りました。
代わってやって来たのが、府中家により追われて甲斐に逃れていた松尾小笠原家です。
後日詳しく書くのですが・・・松尾城と鈴岡城は堀一本隔ててすぐ隣にありました。
もともと兄弟だったので隣どうしだったのでしょうが、隣同士で数十年も戦をしていたのです。
下条氏は武田信玄に降伏することで領地を保ち、更に知久氏領を与えられました。
当主・下条信氏は武田信玄に重用され、秋山信友の配下に組み入れられて武功を重ねました。
それは名前に一文字与えられ、更には信玄の妹を娶っていることに現れています。
1582年2月、織田信長に攻められ落城しました。
木曽義昌が武田勝頼を裏切って織田信長に寝返ったことにより、甲州征伐が始まりました。
吉岡城も織田方の河尻秀隆・森長可らの軍勢に攻められました。
この時、下条信氏の弟・氏長が織田方に寝返ったため、吉岡城は落城しました。
城を逃れた下条信氏とその嫡男・信正は三河へ落ち延び、戻ることが出来ませんでした。
吉岡城および下条氏の領地は、下条氏長に与えられました。
1582年6月、下条信氏の次男・頼安が吉岡城を奪回しました。
武田勝頼が滅ぼされてからわずか3ヶ月で、今度は織田信長が本能寺に斃れました。
この衝撃は凄まじく、甲斐・信濃の武田旧領では、織田家の新たな当主が排斥されました。
吉岡城も例外ではなく、裏切りにより当主となった下条氏長から人心が離れました。
これを見逃す徳川家康ではありません。
自らの元で保護していた前当主の次男・下条頼安による吉岡城奪回を後押ししました。
この時既に下条信氏とその嫡男・信正は失意の内に世を去っていたのでした。
以後、下条氏は徳川家康に忠実に仕え、伊那郡随一の勢力を誇るようになりました。
1584年、下条頼安が松尾城で謀殺されました。
下条頼安は、小笠原信嶺により松尾城で謀殺されました。
これは、下条頼安が徳川家康に大いに取り立てられたことに対する妬みと思われます。
伊那郡はかなりの範囲が下条頼安に与えられていましたので。
この両者を和解させようと、両家の菩提寺同士が縁組を持ちかけたのだそうです。
そうして1583年の末に祝言を挙げ、下条頼安が年始の挨拶に松尾城を訪ねた時の事でした。
家督は頼安の兄・信正の嫡男・牛千代が継ぎ、家康から一字与えられ「康長」と名乗りました。
1587年、下条康長が改易され廃城となりました。
当主・下条康長が幼いため家中は統制が利かず、争いが絶えなくなりました。
徳川家康が真田幸昌の上田城を攻めた際、下条軍は陣小屋を焼失する大失態を犯しました。
この時はすぐに下条康長が徳川家康を訪ねて陳謝したため事無きを得ましたが・・・
この失態を犯した家臣が徳川家康に讒訴をしたため、下条家の重臣達が尋問を受けました。
ところが、彼らは下条へ逃げ帰ってしまったのです。
責めを負った下條康長は飯田城に拘禁され、改易処分となりました。
その後、城内には江戸幕府の代官所が置かれましたが・・・
寛永年間(1624~45年までの間)に旗本の知久氏により破却されました。
この時期に島原の乱があったための措置と思われます。
一揆軍が廃城となっていた原城に立て篭もったためです。
廃城の再利用を防ごうと、全国的に城跡が破壊されました。
所在地:長野県下伊那郡下條村吉岡
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