2015/02/02
大沢城/長野県阿南町
大沢城跡は神社になっています。訪問日は2013年7月29日です。

▲神社参道の入口
久米ヶ城から国道151号を少し南下し、吉岡城跡を過ぎた所に大沢城がありました。
大沢城に行く道は国道の雲雀沢橋南側から国道の下を回り込んで東へ向かう細道です。
入口は少し分かりづらいかもしれません。
「あれ?本当にココから?」って感じです。
写真撮ってなかったので、
Google Mapのストビューのリンクを貼っておきます。
国道の入口には神社の案内が出ていましたが、神社の周りには案内は出ていません。
道の左側を注意深く見ていると、神社の縁起が書かれた説明板があります。
そのすぐ先に3台くらい停められるスペースがあるので、そこに駐車します。
写ってるクルマはお世話になったレンタカーです。
散々お世話になったのですが、車種すら覚えていません


▲参道を上がった所
参道の狭くて急な石段を登り詰めると、一気にお城っぽい雰囲気になりました。
帯郭と主郭?的な配置です。
ただし、廃城からかなりの年月が経っているので、神社建てた時の改変かもしれませんが。

▲古城八幡神社
帯郭風の所から更に石段を上がると、社殿が見えました。
ここが主郭のようですね。そんな雰囲気がします。
雰囲気だけで判断してます

神社の裏に更に堀切とか土塁があるらしいのですが・・・
真夏で草が茂っていたのと、雨降りだったのとで進む気にならず。
「意気地なし」と罵って下さい

◆歴史◆
1394年、下条頼氏により築かれました。
下条氏は甲斐武田氏の一族ですが、甲斐国内の騒乱を避けて移って来ました。
信濃の大族・小笠原氏が同族の誼で伊賀良荘の地を与えました。
その時の当主が長基なのか長秀なのかわかりませんが・・・
1400年にあった大塔合戦に下条伊豆守と下条美作守が参戦しました。
1470年頃、下条氏が府中小笠原氏から養子を迎えました。
下条氏は当主が出家したり、夭折したりで落ち着かなかったようです。
2代めの下条景氏は、突然仏門に入ってしまい、政務を執らなくなりました。
その子・義氏は幼少のため母親が当主を代行したが、義氏が夭折。
そのため景氏の弟で開眼寺の住職となっていた運碩が還俗して継ぎました。
しかし、運碩にも跡継ぎが無かったため、下条氏は絶えました。
丁度この頃に松尾小笠原氏と鈴岡小笠原氏が「伊賀良荘」を巡り対立し始めました。
それって跡継ぎが絶えて空白地となる下条氏の領地の奪い合いだったんですね。
最終的には松尾・鈴岡両家の祖にあたる小笠原政康の三男・小笠原康氏が継ぎました。
これには両家とも文句の言い様が無かったかもしれません。
松尾・鈴岡両家と下条氏が争った形跡が無いのは、このせいかもしれません。
1473年、下条康氏が本拠を吉岡城に移しました。
小笠原氏から養子・康氏を迎えてから、下条氏の威勢が増しました。
下条康氏は守護家であった鈴岡小笠原氏との関係を重視したそうです。
本拠が移った後の大沢城は、重臣の佐々木帯刀が守りました。
1587年頃廃城となりました。
一時は南の関氏を滅ぼして下伊那地域最大勢力となった下条氏でしたが・・・
1582年に武田勝頼、織田信長が相次いで世を去った混乱の渦に巻き込まれました。
これにより、9・10・11代目が1年の間に世を去りました。
12代目の牛千代が継いでからも内紛が続いたため、徳川家康により改易されました。
主家・下条氏が没落した際に佐々木氏が帰農したため、大沢城は廃城となりました。
所在地:長野県下伊那郡阿南町富草古城
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