2015/02/01
久米ヶ城/長野県飯田市
久米ヶ城は中央道のトンネルを出てすぐの所にあります。訪問日は2013年7月29日です。

▲見取図拡大表示
まずは城内にあった見取図を拝借です。
城内までクルマで登ることができ、駐車場のすぐ脇が城跡でした。
・・・とは言うものの、この図のどこが駐車場だったかすら思い出せず。
今こうやって見ると、土塁とか堀切とか色々残っているんですね


▲稲荷神社
主郭のど真ん中には真っ赤な幟がトレードマークの稲荷神社です。
稲荷神社にしてはかなり控え目な気もします。
でも、稲荷神社博士になるつもりは無いので、あえて深くツッコミませんw

▲神社の裏側に案内板
主郭は神社を取り巻くようになっています。
神社の裏側に一番上の図が載った案内板がありました。
こういう図があると見学するポイントがわかってとても助かります

・・・などと書くクセ、隣の中の城すら見てないんですよね


▲模擬櫓
城内で一番目立つのは、この櫓です。もちろん模擬です。
見晴らしがよい場所なので、こんな感じのがあったかもしれませんね!

▲朝駆けでした
上の4枚の写真はかな~り明るくなるよう加工していまして・・・
訪ねたのは朝で、夜明けを待ってウロウロ開始しました。
実際はこんな感じで、薄暗い上に霧もかかっていました。
思い出すと、当日は雨だったんですよね・・・
バイク故障で急遽レンタカーでの旅となりましたが、災い転じて何とやらです。
◆歴史◆
ググッて出てくる歴史というと・・・
・貞和年間(1345~50年の間)、小笠原貞長により築かれた。
・その約200年後に松尾城とともに落城した。
・・・くらい。
でも!ここは松尾城&鈴岡城の超ご近所。
戦国時代に争った両小笠原家の抗争に巻き込まれないはずがありません。
松尾城とともに落城ということは、1554年の武田軍による伊那侵攻ですね。
この時、この辺り一帯は鈴岡小笠原氏が支配しており、武田軍に追われました。
代わって松尾城に入ったのが、1534年に甲斐に逃れていた松尾小笠原氏です。
・・・既に混乱してますが

小笠原氏の内紛をザックリ書くと、
1442年、信濃守護・小笠原政康が没し、府中家と松尾家で惣領職を巡る争いが始まりました。
府中家は政康の兄の系統、松尾家は政康の系統です。
1446年、府中家が松尾家当主を討つが、松尾家当主は弟の鈴岡家当主に家督を譲っていました。
そのため、府中家と鈴岡家で争いが続きました。
1467年、領地を巡り松尾家と鈴岡家で争いが始まりました。
ここから三つ巴となります。
1493年、松尾家が鈴岡家を滅ぼしました。
1534年、府中家が松尾家を甲斐へ追放し、弟が鈴岡家を再興。
1554年、武田信玄が信濃に侵攻。府中家・鈴岡家は京へ逃れ、松尾家が松尾城に復帰しました。
1582年、武田勝頼滅亡。府中家が深志城に復帰。
松尾家は徳川家に仕え存続。
1590年、府中家が讃岐→古河へ、松尾家が埼玉の本庄へ移りました。
尚、江戸時代に小倉藩主となったのは府中家です。
ググって出てくる名前がみんな小笠原~なので、整理するのに苦労しましたw
所在地:長野県飯田市久米
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