2015/01/31
苗木城/岐阜県中津川市
長かった岐阜シリーズのトリは苗木城です。
訪問日は2013年7月28日です。
※続日本100名城スタンプについて追記しました
◆歴史◆
元弘年間(1331~34年の間)に遠山景長が高森山に砦を築きました。
鎌倉時代末に、遠山氏により砦が築かれました。本城は植苗木の広恵寺城で、苗木城の北北西にありました。そこは飛騨への南北の街道と坂下への東西の街道が交わる要衝でした。
1526年、遠山昌利が植苗木から高森山に館を移しました。
その頃は東美濃を支配していた小笠原氏が内紛状態でした。その機に乗じて遠山氏が徐々に版図を拡大していた時期でもあります。しかし、相手は信濃守護の大族・小笠原氏です。奥まった所にある広恵寺城よりもこちらの方が都合が良かったのでしょうね。
1532年、遠山直廉が苗木城を築きました。
遠山直廉は岩村城主・遠山景友の子で、手賀野の館を拠点としていました。遠山昌利に跡継ぎ無かったため、本家からの養子として迎えられたのだそうです。砦から本格的な城に改修出来たということは、支配が確立したということでしょうね。
1570年頃、飯羽間遠山氏の遠山友勝が城主となります。
遠山直廉は武田軍の飛騨攻略に参加しましたが、この時負った矢傷が原因で没しました。直廉には跡継ぎが無かったため、飯羽間城主だった遠山友勝が跡を継ぎました。この頃までは織田・武田両家は友好関係にあり、遠山氏は両家に属していました。しかし、1572年から武田軍が美濃へ侵攻し始めると、織田方として武田軍と戦っています。
1583年、河尻秀長が城代となりました。
本能寺の変後、東美濃では森長可が周囲の勢力と戦いました。遠山氏も例外ではありませんでした。これは羽柴秀吉が遠山氏に対し、森長可に従うよう命じたのを拒否したためだそうです。遠山氏は徳川家康とも親交があったようで、命令を拒否したのもそのためかもしれません。苗木城を攻め落とされた後、城主・遠山友政は徳川家康を頼って落ち延びました。
1600年、遠山友政が苗木城主に復帰しました。
関ヶ原の戦いで西軍に属した岩村城の田丸直昌を、妻木氏や小里氏とともに攻めました。この戦いで遠山氏は明知城と苗木城、小里氏は小里城をそれぞれ奪還することに成功しました。戦後、これらの功が認められ、遠山氏と小里氏は旧領へ復帰しました。
以後、1871年(明治4年)に廃城となるまで、苗木遠山氏12代の居城となりました。
スタンプ設置場所
所在地:岐阜県中津川市苗木
訪問日は2013年7月28日です。
※続日本100名城スタンプについて追記しました
![]() ![]() ![]() ▲石垣 苗木城にはチョー立派な石垣があります。当日は日没までに予定箇所を回り切れなさそうになし。なので、他を全部飛ばしてココに来ました。城跡に辿り着いたのは17時半過ぎです。来て見ると、期待通りに見事な石垣が出迎えてくれました ![]() |
![]() ▲城址碑 道を進むとちょっとした広場があり、そこに城址碑がありました。横長のそれは、ここに並んで記念写真を撮れ的な配置に見えます。ということは、ここからの眺めが一番絵になるという事ですね! |
![]() ▲大矢倉の石垣 さらに真っ直ぐ進むと、左前方に石垣の山がありました。ここは大矢倉の跡だそうで、天守台のように内側が凹んでいました。奈良の高取城にもこんな感じの石垣あったな~なんて思い出しました。 |
![]() ▲本丸の入口 大矢倉の石垣から回れ右(回れ左でもok)をすると、急峻な山に石垣が積まれています。歩きやすそうな歩道を辿って行くと、そこかしこに門の跡がありました。急斜面をぐるぐる遠回りに登る一本道を塞ぐ数々の門・・・まるでリアル十二宮ヽ(´∀`)ノ・・・歳バレますね |
![]() ▲天守跡にある展望台 そんなこんなで登って行くと、テッペンの大きな岩の上に木で組んだ展望台があります。高所恐怖症で見上げただけでも背筋がゾクゾクしましたが・・・それでも上へ上へとふらふら登ってしまう習性には逆らえませんでした。 |
![]() ▲眺め 下から見上げると怖かったのですが、上がってしまえばコッチのもんです。板が敷かれていて、ちゃんと下が見えないようになっていますから!それにしても、すごい所に建てたものです。周りに風を遮るものも無いし、雷なんかもココめがけて落ちて来そうです。それだけに周囲の眺めはスバラシイヽ(´∀`)ノここで見張っていれば、どこから敵が来てもすぐにバレますね! |
◆歴史◆
元弘年間(1331~34年の間)に遠山景長が高森山に砦を築きました。
鎌倉時代末に、遠山氏により砦が築かれました。本城は植苗木の広恵寺城で、苗木城の北北西にありました。そこは飛騨への南北の街道と坂下への東西の街道が交わる要衝でした。
1526年、遠山昌利が植苗木から高森山に館を移しました。
その頃は東美濃を支配していた小笠原氏が内紛状態でした。その機に乗じて遠山氏が徐々に版図を拡大していた時期でもあります。しかし、相手は信濃守護の大族・小笠原氏です。奥まった所にある広恵寺城よりもこちらの方が都合が良かったのでしょうね。
1532年、遠山直廉が苗木城を築きました。
遠山直廉は岩村城主・遠山景友の子で、手賀野の館を拠点としていました。遠山昌利に跡継ぎ無かったため、本家からの養子として迎えられたのだそうです。砦から本格的な城に改修出来たということは、支配が確立したということでしょうね。
1570年頃、飯羽間遠山氏の遠山友勝が城主となります。
遠山直廉は武田軍の飛騨攻略に参加しましたが、この時負った矢傷が原因で没しました。直廉には跡継ぎが無かったため、飯羽間城主だった遠山友勝が跡を継ぎました。この頃までは織田・武田両家は友好関係にあり、遠山氏は両家に属していました。しかし、1572年から武田軍が美濃へ侵攻し始めると、織田方として武田軍と戦っています。
1583年、河尻秀長が城代となりました。
本能寺の変後、東美濃では森長可が周囲の勢力と戦いました。遠山氏も例外ではありませんでした。これは羽柴秀吉が遠山氏に対し、森長可に従うよう命じたのを拒否したためだそうです。遠山氏は徳川家康とも親交があったようで、命令を拒否したのもそのためかもしれません。苗木城を攻め落とされた後、城主・遠山友政は徳川家康を頼って落ち延びました。
1600年、遠山友政が苗木城主に復帰しました。
関ヶ原の戦いで西軍に属した岩村城の田丸直昌を、妻木氏や小里氏とともに攻めました。この戦いで遠山氏は明知城と苗木城、小里氏は小里城をそれぞれ奪還することに成功しました。戦後、これらの功が認められ、遠山氏と小里氏は旧領へ復帰しました。
以後、1871年(明治4年)に廃城となるまで、苗木遠山氏12代の居城となりました。
スタンプ設置場所
![]() | 遠山苗木資料館 開館時間 9時半~17時半(入館は17時まで) 休館日 月曜日(祝日の場合は翌日)、 12月27日~1月5日 入館料 320円、中学生以下無料 |
所在地:岐阜県中津川市苗木
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