2015/01/31
飯羽間城/岐阜県恵那市
飯羽間城にはたくさんの説明板があります。訪問日は2013年8月2日です。

▲霧
はじめの予定ではこの前日に帰宅するはずでしたが・・・初日に動かなくなって修理に出したバイク修理が1日延長(レンタカー借りました)。せっかく1日延びたので、時間切れだったり迷ったりした所を急遽追加しました。その1発目がここ飯羽間城です。
夜明け前に到着しましたが、なかなか明るくならず。濃い霧の中にうっすら周囲が見えて来たので、城攻めを開始しました。ちなみに写真の小山は、間違えて登りそうになった所です。Google Mapの航空写真で見たら、本物のすぐ左下にありました


▲案内
それでも迷わなかったのは、こいつのお陰です。間違えた山の登り口を捜していたら、こいつが別の方向を指していました。

▲登城口
こいつはいくつかあったように記憶しています。その矢印に従って辿り着いた登城口です。何もなければスルーしそうな所です。案内の他に、何やら文字がビッシリ書かれた白い板が!近づいて見ると・・・

▲説明書き①
飯羽間城について書かれていました!ここが登城口だと確信できたのはこいつのお陰でした。しかし、手書きなんて気合入ってる!

▲説明書き②
ちょっと登ると、再び説明書きが現れました。しかもまた手書き。頑張ってる方がいらっしゃるんですね!

▲説明書き③
でも、流石に三枚目になるとちょっち怖くなってきます。
しかも字ちっさいし・・・

▲大手口
更に進んでまた?と思いながら見てみると、ここが本丸への大手道だという案内でした。確かに雰囲気あるのですが・・・本来の登城ルートで歩きたい気がしたのですが・・・藪っぽかったので、そのまま綺麗な道を進みました。

▲説明書き④
まだまだ出てくる手書きの説明板。そんなに詳しくてどうする?という位に攻めてきます。しかも、内容ダブってないんですよね。中身覚えてませんけど


▲説明書き⑤
もはや呪文にしか見えなくなってきました

▲本丸
そんな呪文に殺られそうになった頃、正面に人工的な地形が現れました。ようやく本丸到着です。・・・とは言っても霧でよく見えませんでした。

▲慰霊碑
お!城址碑!と思って近づいてみると・・・「飯羽間城諸将士三界萬霊塔」と彫られていました。ここで起きた悲劇を後世に伝えようということでしょうか。すぐ後ろには、倒れかけた板塔婆が。面白がって夜中に来ない方がよさげな雰囲気です。

▲本丸の様子
さて、城内の様子を見ましょうか!と言っても、浅学な私には削平された本丸の郭ぐらいしかわからず。堀や土塁の類はきっとどこかに・・・

▲説明書き⑥
やっぱり本丸にもありました。本丸に無くてどうする?位の意気込みを感じます。ちゃんとよんだら飯羽間博士になれそうです(・∀・)

▲皆さん最初に載せてるのはこの写真
本丸攻略した!城址碑っぽいのもあった!説明書き沢山あった!でお腹一杯になったので下山して次の城跡へ。既に心ココに在らずといった感じでした。ふと脇見した山の上に何やら白い看板が。「飯羽間城址」と書かれていました。コレを撮らずにどうする?という感じの1枚です。

▲その真下に城址碑
よく目を凝らすと、その真下に石碑がありました。近づいて見るとバッチリな城址碑ですヽ(´∀`)ノ本丸じゃなくて麓にあったんですね。

▲この交差点を目指しましょう
すっかり逆回りになっていますが、皆様が最初に辿り着くのはこの交差点です。私は真っ暗&濃霧で、着いた時には見えませんでしたが

◆歴史◆
飯羽間城は岩村城を本拠とした遠山氏のお城です。鎌倉時代はじめ頃、幕府創立の功績により重臣・加藤景廉に遠山荘が与えられました。この人は全国に沢山の領地を持っており、長男の景朝が遠山荘に配置されました。そのまま土着して遠山姓を名乗るようになったのでしょう。
遠山氏は東美濃に一大勢力を築き上げ、遠山十八子城を支配していました。その中の1つが飯羽間城で、岩村城に最も近く、重要な支城だったと考えられます。
1574年、落城し廃城となりました。
いきなりですが

この頃の東美濃は織田信長と武田勝頼が争っていました。この2年前に岩村城を手に入れた武田勝頼が、3万の軍勢で再び攻めて来ました。織田信長も3万の軍勢を出して応戦しましたが、山県昌景に退路を脅かされやむなく退きました。武田軍は遠山十八子城を次々と攻め落とし、最後に残ったのが飯羽間城でした。
この時の城主は遠山友信ですが、城内に突入した武田軍により土蔵で捕まったそうです。なぜ城主が土蔵で?武田側の資料では捕まえたことになっていますが・・・織田側の資料では遠山友信が寝返ったことにされています。
篭城していた350人の兵士は皆殺しにされたので、真相を伝える者が無かったのでしょうか。状況的には周りの城が全て落城し、織田の援軍も期待出来ませんでした。そうなると、降伏するか、城を枕に討死するかの二者択一ですね。そんな時に城主が土蔵に居たということは、監禁されていたのでしょうか。隠れるにしても、こんな小さなお城ではすぐに見つかりますからね。
遠山友信はそのまま甲斐へ連れ去られましたが、後日織田軍により処刑されたとされています。
所在地:岐阜県恵那市岩村町飯羽間
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