2015/01/18
妻木城/岐阜県土岐市
妻木城へはゴルフ場脇の道を通って行きます。訪問日は2013年8月2日です。

▲登城口にある案内板

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名岐国際ゴルフ倶楽部の手前にY字路があり、妻木城の案内が出ています。ゴルフ場の東端沿いのその道を走り続け、突き当たりの広場の所が登城口です。ここにクルマを停め、北側の山中に続く道を歩きます。

▲巨石が転がっています
登城路脇にはこんな感じで巨石が転がっています。大き過ぎるので石垣のものではなさそうですが・・・石垣の材料には困らなさそうですネ!

▲堀切
場所は忘れちゃいましたが、堀切に遭遇!
テンション↑↑↑です!

▲伝太鼓櫓跡
さらに、今度は石垣登場!撮った場所はメモっていませんが、上の方に小さく「伝太鼓櫓」の札が写っています。ということは、上の堀切もその近所ですね(我ながらテキトーです


▲本丸
そして、いきなりですが本丸です。書きながらあれれ???と思いました。一番最後に載せている説明板の縄張図見てて不思議に思っていました。けど、登城口にあった案内図を見てわかりました。どうやら伝太鼓櫓からまっすぐ右へ進み、近道の蔵跡から登ったようです。
私の思考回路を考えればそうに違いありませんが・・・後から写真を見ていると、時々こんな感じに戸惑います。ただ、現場だとどうしても楽な方へサラッと流れて行っちゃうんですよね


▲枡形の石垣
本丸から下ると、足元に真っ直ぐ並んだ石の列がありました。そのまま進むと枡形虎口になっており、その石垣でした。

▲二の丸から見た枡形虎口
二の丸まで下りて振り返ると!!!立派な石垣がありました。かなりアドレナリンが沢山出たようで・・・妻木城で撮った写真の半分くらいはココの写真でした。

▲二の丸にある説明板
二の丸の入口(三の丸側)には等高線の入った縄張図付きの説明板があります。普段ならこっちの図をトップに持って来るのですが、上の件もありボツとなりました。この後に撮った写真が無いので、どうやら三の丸を見ずに元来た道を下ったようです。立派な遺構を見てテンションが上がり、お腹一杯になってしまったようですね┐(´∀`)┌
これ書いてる時に調べたのですが、北側の山麓に石垣の立派な陣屋跡があるそうです。江戸時代初期の様式を残す貴重な遺構だそうで・・・皆様は是非そちらも見学してクダサイ。
◆歴史◆
南北朝時代の1339年頃、土岐頼重により築かれたと考えられています。
土岐頼重は土岐氏の初代美濃守護・土岐頼貞の孫です。頼重は可児郡の明智城を居城として明智姓を名乗りました。その後、明智氏から派生した庶流の妻木氏の城となりました。はじめに妻木姓を名乗ったのは妻木弘定だそうですが・・・いつの時代の人物なのかわかりませんでした。
1582年、本能寺の変で、当主・妻木広忠が自刃しました。
妻木広忠は明智光秀に従っていたため、山崎の戦いで敗れた際に自刃しました。明智光秀の正妻は妻木広忠の娘だったそうで・・・かなり初期の庶流とはいえ、本家とは繋がりがあったんですね!広忠の後を妻木頼忠が継ぎました。
その後、森長可が信濃から金山に戻ると、土岐郡や恵那郡に侵攻して来ました。そのため遠山氏とともに抵抗しましたが、和議を結んで森長可に従うようになりました。しばらくは人質を差し出し、金山城下に住むことを強要されました。その間は森家臣・林為忠が城代となりました。
1584年、妻木頼忠が城主に復帰しました。
小牧・長久手の戦いで森長可が討死したため、その弟・森忠政が跡を継ぎました。その頃になると森家中での信任を得たようで、妻木城へ戻ることを許されています。1600年に森忠政は信濃・川中島へ移りましたが、妻木氏は美濃に残りました。
その直後に起きた関ヶ原の戦いで、妻木頼忠は東軍につきました。この時、豊臣秀吉により先祖代々の地を追われていた遠山氏や小里氏を味方につけています。そして、新たに領主となっていた岩村城主・田丸直昌と戦いました。この戦いで彼らの元居城であった明知城や小里城を奪回する活躍を見せました。その功により、妻木領7500石を安堵されています。戦後、妻木氏は山城の妻木城ではなく、山麓の館で政務を執るようになりました。
1658年、妻木氏が断絶しました。
妻木頼忠の孫・妻木頼次が跡継ぎ無く没したため、妻木領7000石は幕府に接収されました。この時に北の山麓にあった陣屋は廃されています。生前、弟の妻木幸広に500石が分知されており、妻木家を再興して妻木の地を領しました。
所在地:岐阜県土岐市妻木町上郷
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