2015/01/18
和知城/岐阜県八百津町
和知城跡は稲葉城公園として整備されています。訪問日は2013年7月28日です。

▲公園の入口
立派な駐車場に車を停めると、正面に白塗りの塀と建物が見えます。お城をモチーフにしているのがわかります。でも、ちょっと安易なような感じがします。

▲本丸跡
城内に入って最初に目に飛び込んで来たのが、展望台と滑り台でした。入口からして何となく感じてはいましたが・・・やっちゃった感で充満している本丸跡でした。

▲堀切
遠めにちょっと残念な本丸が見えたのですが、その手前にはとても深い溝があります。これはどうやら堀切のようです。後で見た縄張図によると、本丸と二の丸を隔てる堀切が描かれていました。ただ、パッと見はどう見ても重機で掘ったようにしか見えません。真相を知らないので何とも言えませんが、どうなんでしょうか?

▲変わり果てた土塁
気が進まないなりに本丸まで進みましたが、奥まで見に行く気にならず。振り返ると、今度は野外ステージみたいな土台が見えました。近寄ってみると説明板があり、そこに描かれている縄張図からすると土塁のようです。半分ありませんが・・・残っていたのか、土を盛り直したのか、定かではありません。

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縄張図を見ていると、現場には無いものが沢山描かれています。どこがどうなっているのかちょっと考え込みましたが・・・三の丸が駐車場で、本丸と二の丸は完全にまっ平らにされていますね。大手門辺りの複雑な堀も埋め立てられ、民家が建っています。却って何もありません、やっちゃいました!と説明板と城址碑だけある方が潔い気がしました。
◆歴史◆
1590年、稲葉方通により築かれました。
稲葉方通は稲葉一鉄の4男です。和知城へ来る前は西美濃の西保城主でした。和知城へ移されたのは、遠藤慶隆に備えるためだそうです。
遠藤慶隆はもともとは郡上八幡城2万7千石の城主でした。1565年に美濃が織田信長に制圧された時、いち早く織田方に鞍替えしました。1582年の本能寺の変の後、岐阜城主・織田信孝に従って羽柴方と戦いました。立花山の戦いで森長可らの軍勢に包囲され、織田信孝降伏の知らせを受けて降伏しました。以後は小牧・長久手の戦いや紀州征伐、九州征伐など、秀吉の配下として戦っていました。1588年、遠藤慶隆は突然減封を言い渡され、郡上八幡城を召し上げられました。理由は5年前に秀吉と敵対した立花山の戦いだったそうです。寝耳に水ですよね・・・遠藤慶隆は大人しく城を新城主・稲葉貞通に引き渡しました。
しかし、減封を言い渡されたものの、なかなか新しい領地を与えられませんでした。困窮した遠藤慶隆は、関の町人・加取善左衛門に家を借りて暮らしていました。太閤検地に来た小野木縫殿助らにその事を伝えると、1590年にやっと領地を与えられました。
・・・脱線長かったですが、遠藤慶隆はかなり気概のある武将なので警戒したんでしょうね。脱線ついでに、関ヶ原の戦いで遠藤慶隆は西軍・稲葉貞通の郡上八幡城を攻め落としました。この働きにより、郡上八幡城に返り咲きました。
1617年、尾張藩に組み込まれました。
稲葉方通は尾張藩・徳川義直に仕え、金山に所領を移されました。1676年、5代目の稲葉屋通が嗣子無く没し、和知稲葉家は断絶しました。
所在地:岐阜県加茂郡八百津町野上
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