2015/01/17
顔戸城/岐阜県御嵩町
顔戸城は調べてビックリ、斎藤妙椿の館でした。訪問日は2013年8月2日です。

▲縄張図
行く前はまだ美濃の歴史に疎かったです。当時は「居館か。御嵩城近いし、堀と土塁があるならついでに寄るか」という感じでした。今は色々美濃の歴史に接したのでわかるのですが・・・応仁の乱の時に美濃で大活躍した斎藤妙椿の館でした。今見に行ったら、もっとちゃんと見るのですが


▲北側の土塁
地図では国道21号線沿いにあり、迷う事はありませんでした。ただし、お城の周りの道が思ったより細いので通り過ぎてUターンしましたが。国道から館の左下の道に入り、そこから時計回りに外周を見ました。事前に調べた通り堀と土塁で囲まれていましたが、草木で覆われ中々絵にならず。内側は何となく私有地っぽくて入るのも躊躇らわれ・・・

▲石碑周辺
このままではせっかく来たのに何も撮れない!と焦っていました。しかし、もうじき国道に出る手前にちょっと開けた場所がありました。そこには何やら石碑が


▲土塁
さらに周囲の土塁は草木が刈られてとても見やすい!やっとお土産ゲットですヽ(´∀`)ノ

▲空堀
遺構として絵になる土塁・空堀および石碑は、一番上の図の「現在地」の所です。内側には数件の民家があり、小心者な私は入りませんでした。斎藤妙椿がどんだけ凄い人なのか知っていれば、もっと詳しく見たのですが・・・無知ほど残念な事はありませんね(T_T)
◆歴史◆
応仁年間(1467~69年の間)に斎藤妙椿により築かれました。
斎藤妙椿は美濃守護代・斎藤利永の弟です。1460年に兄・利永が没すると、利永の嫡子・利藤の後見として還俗しました。僧侶時代、善恵寺に持是院という子院を構えたので、妙椿の系統を持是院家と呼びます。「妙椿」は法名で、本名は不明なままです。そのため、かつては甥の斎藤利藤と同一人物だと考えられていました。
政界に入った妙椿は、守護・土岐成頼と連携して美濃国内を引き締めました。応仁の乱では西軍に属し、土岐成頼は主に京で戦いました。斎藤妙椿は美濃に残り、東軍に属したかつてのライバル富島氏や長江氏と戦いました。この過程で東軍方の荘園を次々に押領して、守護家を凌ぐ財力を蓄えています。
妙椿は近江や越前、尾張、飛騨などにも出兵し、かなりの影響力がありました。主の土岐氏は妙椿の親の代に実力が逆転し、傀儡になりつつありました。土岐成頼は、妙椿の兄・斎藤利永により一色家から迎えられ守護になっていたのです。
ただ、あまりにも妙椿の権力が強すぎたのか、妙椿の死後、美濃は荒れました。妙椿の遺言により土岐成頼は妙椿の養子・妙純を重用しました。しかし、守護代・斎藤利藤が反発したため、両者の争いが始まりました。利藤と妙純は異母兄弟です。・・・長くなりそうなので、今宵はココまでw
所在地:岐阜県可児郡御嵩町顔戸
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