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顔戸城/岐阜県御嵩町

顔戸城は調べてビックリ、斎藤妙椿の館でした。
訪問日は2013年8月2日です。

顔戸城/①縄張図
▲縄張図

行く前はまだ美濃の歴史に疎かったです。当時は「居館か。御嵩城近いし、堀と土塁があるならついでに寄るか」という感じでした。今は色々美濃の歴史に接したのでわかるのですが・・・応仁の乱の時に美濃で大活躍した斎藤妙椿の館でした。今見に行ったら、もっとちゃんと見るのですがあせる

顔戸城/②北側
▲北側の土塁

地図では国道21号線沿いにあり、迷う事はありませんでした。ただし、お城の周りの道が思ったより細いので通り過ぎてUターンしましたが。国道から館の左下の道に入り、そこから時計回りに外周を見ました。事前に調べた通り堀と土塁で囲まれていましたが、草木で覆われ中々絵にならず。内側は何となく私有地っぽくて入るのも躊躇らわれ・・・

顔戸城/③石碑周辺
▲石碑周辺

このままではせっかく来たのに何も撮れない!と焦っていました。しかし、もうじき国道に出る手前にちょっと開けた場所がありました。そこには何やら石碑がラブラブ近づいて見たら、顔戸城の歴史や縄張図が描かれていましたヽ(´∀`)ノ

顔戸城/④土塁
▲土塁

さらに周囲の土塁は草木が刈られてとても見やすい!やっとお土産ゲットですヽ(´∀`)ノ

顔戸城/⑤空堀
▲空堀

遺構として絵になる土塁・空堀および石碑は、一番上の図の「現在地」の所です。内側には数件の民家があり、小心者な私は入りませんでした。斎藤妙椿がどんだけ凄い人なのか知っていれば、もっと詳しく見たのですが・・・無知ほど残念な事はありませんね(T_T)


◆歴史◆

応仁年間(1467~69年の間)に斎藤妙椿により築かれました。

斎藤妙椿は美濃守護代・斎藤利永の弟です。1460年に兄・利永が没すると、利永の嫡子・利藤の後見として還俗しました。僧侶時代、善恵寺に持是院という子院を構えたので、妙椿の系統を持是院家と呼びます。「妙椿」は法名で、本名は不明なままです。そのため、かつては甥の斎藤利藤と同一人物だと考えられていました。

政界に入った妙椿は、守護・土岐成頼と連携して美濃国内を引き締めました。応仁の乱では西軍に属し、土岐成頼は主に京で戦いました。斎藤妙椿は美濃に残り、東軍に属したかつてのライバル富島氏や長江氏と戦いました。この過程で東軍方の荘園を次々に押領して、守護家を凌ぐ財力を蓄えています。

妙椿は近江や越前、尾張、飛騨などにも出兵し、かなりの影響力がありました。主の土岐氏は妙椿の親の代に実力が逆転し、傀儡になりつつありました。土岐成頼は、妙椿の兄・斎藤利永により一色家から迎えられ守護になっていたのです。

ただ、あまりにも妙椿の権力が強すぎたのか、妙椿の死後、美濃は荒れました。妙椿の遺言により土岐成頼は妙椿の養子・妙純を重用しました。しかし、守護代・斎藤利藤が反発したため、両者の争いが始まりました。利藤と妙純は異母兄弟です。・・・長くなりそうなので、今宵はココまでw


所在地:岐阜県可児郡御嵩町顔戸

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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