2015/01/16
久々利城/岐阜県可児市
久々利城は郷土歴史館の正面から登ります。訪問日は2013年8月2日です。

▲登城口
郷土歴史館から道を挟んだ所に、写真の登城口があります。まだ朝早くて郷土歴史館は開いていませんでしたが、駐車場をお借りしました。城跡の目の前ということは、久々利城の資料もありそうですね!

▲城址碑と説明板
そして登城口には城址碑と説明板もあります!ただ・・・説明板の方は日に焼けて文字がうっすら。゜(゚´Д`゚)゜。あれば載せたい縄張図も、トレースでもしないと見えません。

▲登城路
登城路はよく整備されていて、真夏でも歩きやすかったです。

▲井戸
登城口から登ること3分。郭らしき広い場所に出ました。そこには石で囲まれた井戸が。白い服着た人居たら怖いので、中は見ませんでした。

▲堀切っぽい所
更に進むと堀切っぽいのがありました。堀切じゃないかもしれませんが・・・堀切かもしれませんw他にも土塁らしきものもありました。遺構がはっきりしないのは、廃城後に破壊されたのでしょうか?

▲一番高い所
更に進むと物見台らしき場所に出ました。登る道無いかな?と道を進もうとしましたが、竹薮に阻まれ進めず。その竹薮には、城跡保存のために竹を枯らす実験をしていると貼紙がありました。もう1年半前の事なので、今頃は竹が減ってるかもしれませんが。
周りに上がる道が無いということは、十八番の直登か?そう思って登ろうとしましたが、傾斜がきつい上に滑りやすくて登れませんでした。お城としての防御力はまだまだ健在だったようですw
◆歴史◆
延元・正平年間(1336~70年の間)土岐康貞により築かれました。
土岐康貞は美濃守護・土岐頼康の弟です。土岐氏は足利義満にハメられて内部分裂した後、西美濃の分家が宗家となりました。土岐康貞が美濃東部に配置されたのは、支配を強化するためと思われます。康貞の跡を継いだ康頼からは、地名をとって久々利姓を名乗るようになりました。また、康頼の弟たちにも領地が分知され、宇田氏・羽崎氏を名乗るようになりました。
1565年、織田信長の軍門に降りました。
織田信長が東美濃を制圧し、烏峰城に森可成が配置されました。久々利氏をはじめ、東美濃の土豪達は森可成の配下となりました。
1583年、久々利氏が滅ぼされました。
前年の本能寺の変で織田信長が没すると、東美濃では森長可を排斥する動きがありました。それまでの森氏の支配に不満があったのか、空白地になると当て込んだのが外れたからなのか・・・理由はよくわかりませんが、東美濃の大族・遠山氏や久々利氏が中心となりました。ただし、この動きにはまとまりが無かったようで、森軍は各豪族を各個撃破しました。しかし、この時森軍は久々利軍とは和睦して一旦矛を収めています。
翌年、森長可は軍議を開き、久々利頼興も出席しました。軍議の後に宴会が催されましたが、帰途についた久々利頼興は暗殺されました。森長可はその日の内に久々利城に攻め寄せて制圧。久々利一族は城を脱出したようですが、その後の足取りは不明です。久々利城には戸田勘左衛門が城代として配置されました。
1600年、廃城となりました。
関ヶ原の戦いの前ですが、森忠政が信濃川中島へ加増移封となりました。この加増は、石田三成と徳川家康が対立した際、徳川屋敷の警護に対するものです。川中島は海津城を中心とする地域で、本能寺の変直前に森長可が与えられた所です。森忠政はこの地への移封を希望したそうです。主家の移封に伴い戸田勘左衛門も信濃に移ったため、久々利城も廃城となりました。
ちなみに、新しい任地に着いて最初に森忠政がやった事は、先代である兄の仕返しだそうです。本能寺の変で織田信長が横死すると、地元の土豪達はこぞって織田軍を襲ったからでした。
所在地:岐阜県可児市久々利
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