2015/01/13
羽崎城/岐阜県可児市
羽崎城はたぶん迷子量産マシンだと思います。訪問日は2013年8月2日です。

▲道端に案内があります
羽崎城周辺には道端に「羽崎城→」の案内があります。この矢印を辿って行くのですが・・・

▲その案内で辿り着く所は民家
何度案内通りに進んでみても、この民家に辿り着きます。本当にごく普通の民家があるのです。あまりにも「民家」なので、写真に写らないように撮っています。
入口から恐る恐るのぞいて見ますが、どう見ても民家の玄関先に行っておしまいに見えます。・・・端から見るとただの不審者にしか見えません

それでも諦めずにココに来たのは、初日に預けたバイクの修理が1日伸びたからでした。1日伸びたのは、修理完了予定日にバイク屋さんに行って初めて知りました。電話の1本くらいよこせよo(`ω´*)oなんて憤慨しましたが・・・でも、どんなに怒ってもバイクは急には直りません。さぁどうしよう?で車を1日延長し、宿も急遽とってもう1日岐阜回りをしたのでした。
再び訪れた羽崎城跡。やっぱり矢印はこの民家を指差しています。そこで、勇気を振り絞って玄関先まで進んでみたら・・・右側の藪の中に細っそい道がありました!某ロールプレイングゲームで隠し通路を見つけた時のような感動ですヽ( ;∀;)ノ

▲小さな社の脇に城址碑
意を決して見つけた隠し通路を登ると、すぐに小さな鳥居が現れました。むむむ、怪しい気配が・・・!妖気の原因は、小さな祠の左脇にある石碑でした。

▲城址碑
一度は諦め掛けた羽崎城ですが、リベンジを果たしましたヽ(´∀`)ノ
多分今までの城攻めで3本の指に入る位に感動しましたヽ(´∀`)ノ

▲石垣
道は更に上に続いています。その道を進んで行くと、今度は開けた場所に出ました。そこには何と石垣が!バイクの修理が1日遅れるのも悪いもんじゃないですねw
◆歴史◆
土岐康貞の三男・羽崎光直により築かれたと考えられます。
土岐康貞は美濃守護・土岐頼康の弟とされ、南北朝時代の武将です。弓の名手として知られ、土岐悪五郎の有名を轟かせていました。しかし、1352年に南朝方の和田正忠との戦で戦死しました。
土岐康貞は久々利城を本拠とし、その三人の子が久々利、宇田、羽崎の領地を継ぎました。以後、この三氏は結束して行動を共にします。宇田城築城が応永年間(1374~1426年の間)なので、羽崎城もこの頃築かれたと思われます。
1583年頃廃城となりました。
本家筋の久々利氏とはかなり関係がありそうなので、1583年で間違い無いと思います。この時久々利氏を滅ぼしたのは、主君・森長可でした。何があったのでしょうか?
1582年、織田信長は武田勝頼を滅ぼしました。この時の功により、森長可は信濃海津城20万石を与えられて移りました。森長可の領地は、弟の森蘭丸が継ぎました。
その2ヶ月後、今度は本能寺の変により織田信長が横死しました。この時に森蘭丸も討たれてしまいました。前主・森長可は敵地深く攻め込んでおり、生きて帰ってくる確率は低く思われました。ここで空白地帯となるであろう森氏の領地を狙ったのが、遠山友忠と久々利頼興です。
ところが、森長可は奇策を連発して無事金山城へ帰って来ました。いざ帰ってみると、周囲の土豪達がこぞって自分に反抗的だったのです。そのため、森長可は敵対した土豪の各個撃破に出ました。久々利頼興も森長可と戦いましたが、連戦で疲れた森長可は久々利頼興と和議を結びました。
その翌年、羽柴秀吉が佐々成政を討伐しました。森長可は羽柴秀吉に味方し、佐々方となった飛騨を攻めることとなりました。この戦の打ち合わせの後、森長可は久々利頼興を謀殺しました。そして、この機を逃さず久々利城を攻め落としたのでした。
羽崎城がどうなったのかについてはどこを探しても分かりませんでした。しかし、1583年頃廃城になったというのであれば、久々利城落城が大いに関係ありそうです。
全ては私の脳内妄想で、裏付けも根拠も何もありませんけど

所在地:岐阜県可児市羽崎
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