2014/11/29
菅原城/群馬県富岡市【直登編】
菅原城は今まで行った中で一番危険な所かもしれません。訪問日は2014年11月23日です。
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※後日編として、登城ルートを調べて来たブログを書きました。菅原城/群馬県富岡市です。登城ルートはこちらをご参照下さい。
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「危険」とか「やめた方がいい」と言われても、行く奴は行くもの。そういうオバカさんが城キチというもので、ここに1匹居ますから

何が危険かというと・・・
①武者返しのような岩場。ここは絶対登らないコト!
②熊。遭遇しませんでしたが、新鮮な糞がありました。熊鈴を忘れずに!
③オオスズメバチ。デカイのを2回見ました。絡まれたらゆっくり後退しましょう。

▲北東側からの遠景
訪問前に色々調べはしましたが、やっぱり現地で迷いました。ここは登城路が無く、険しい山肌を直登するのは知ってましたが・・・それを承知で読んだ数々の登城記、やっぱり文章でルートを説明するのって難しい。なのでうっすらですが、記憶を辿った感じは↓です。

国土地理院の地図 を表示

▲城山橋
色々グダグダ書くので、最初に安全と思われるルートを書きます。このルートは下った時のルートを逆に書いてます。
まずは県道51号沿いにある小さな橋(城山橋)を目指します。近くに駐車スペースが無いので、少し北東の庚申碑の前がいいと思います。(地図右上の青●です)

▲城山橋の正面(県道51号の北側)
コンクリートの切れ目の所にちょっとだけ丸太が積んであり、そこから入ります。
藪っぽく見えますが、かすかに残る踏み跡を辿ります。

▲後世に積んだっぽい石垣
あちこちに書かれている「竪堀っぽい」地形があり、20m程登った所に石垣があります。

▲竪堀っぽい地形。道に見えたらあなたも城キチ
ここから見上げると平場があるので、次から次に辿る感じで頂上まで登れます。
ここからは悪戦苦闘記です。
よく登城口として紹介されている庚申塚はかな~り上の方です。地図だと右上の方にある青い●の所です。

▲よく登城口として紹介されている石碑
そこから「竪堀っぽい所」をまっすぐ登れとよく書かれているのですが・・・そんなのあちこちにあり過ぎて、どれの事なのかサッパリ判らず。

▲石碑の辺りから見上げるとこんな感じ
おまけに、小さな平場もあちこちあるので「ここ?」と思いながら登りました。間伐材のお手入れをしたのか、人が歩いた形跡も多々ありました。

▲まっすぐ登ると横一線に岩盤が立ち塞がります
その結果、行く手を岩場に阻まれて窮地に。この岩場、とても滑りやすいので強行突破は止めましょう。下は20m程の急斜面なので、ちょっと滑ったらタダでは済みそうにありません。

▲ここで下を見下ろすといい感じで急斜面w
上にも進めず、かといって下を見ると「どうやって下りるんだ?」という状況。「進退窮まる」ってこういう事なんだ、と妙に落ち着いてましたけどw
さてどうしよう?と思案。上にも下にも行けないなら横へということで、左側(南方向)へ横移動しました。すると、踊り場のような尾根が見えて来たので、とりあえずそこまで移動しました。

▲岩盤を避けて左へ左へと横移動して辿り着いた尾根
この尾根から上に進めるかと思いましたが、ここも上に岩場があり駄目そう。さてどうしよう?と何度目かのシンキングタイム突入です。ここまで来て勇気ある決断!とならないのが悪い癖です。良い子は絶対マネしないで下さいね。
進退窮まると、なぜか見えちゃいけないものが見えてくる私。じ~っと周りを見渡していたら見えちゃいました。道っぽいのが10m程下に!

▲尾根から見下ろしたところ。道に見えます?www
上に登れるなら!と一旦下ると・・・平坦な道ではなく、竪堀っぽい急な坂でした。しかし、これが良い結果につながりました。この窪んだ坂を登ると、ちょっとした平場に出たのです。すると、更に数m上の方にも平場があり、そちらに向かって人が歩いた形跡があります。
やっと城域に!

▲初めて辿り着いた郭
いくつかの小さな人工的な平場を過ぎると、今度はかなり広い平場に出ました。ここが6郭です。削平は若干甘いのですが、斜面に築いた一時的な感じではありません。ここに辿り着くまで相当苦労したので、一気にテンション


▲壁に見えた土塁
この郭からどう上がって行くのか?辺りを見渡すと、どう見ても一番傾斜のキツイ所に踏み跡が続いていました。なんでわざわざこんな急な所を登るんだろう、と思いつつ登ると・・・この急斜面が実は土塁でした!高さは5m程あります。6郭側からはただの斜面にしか見えませんでしたが、巨大な土の壁だったんです。

▲土塁の反対側にも郭が!
土塁を隔てて更に広い5郭がありました。広さは6郭の倍はありそうです。ただし、登城路はこちら側ではなく、土塁上から真っ直ぐ上に向かっていました。道を見つければあとは辿るだけということで、ここは素直に上へ歩きました。
5郭の上に3郭があり、その奥に4郭があります。ただし、登城路は4郭には向かわず、真上に有る2郭へと向かっています。どうやら皆さん考える事は同じで、ここまで来ると目指すは頂上!ですねw

▲頂上の手前にある祠
2郭の端から更に上がると、それまでと雰囲気が変わります。それまでの郭は平らで広くて郭っぽいです。しかし、最上部は細長い尾根を削っただけのような感じになります。
踏み跡を上がって細長い平場の先端に行くと、そこには小さな祠がありました。Uターンして緩~い坂を登ると、2m程のこんもりした所が見えてきました。ここが山頂です。特に何も無く、自己満足に浸れるだけの場所でしたw
◆歴史◆
「菅原城」でググっても歴史らしい歴史を書いたサイトは殆ど皆無。おし、久しぶりに登城記だけで済む!と思いきや・・・唯一のキーワード「高田憲頼」でググると、菅原城の事も書かれていました。菅原城は山内上杉氏の重臣・高田(たかた)氏の城でした。高田氏は清和源氏で、平安時代末に美濃から移り高田姓を称した高田盛員を祖とします。高田氏はもうちょっと東にあった高田城を本拠としました。
菅原城は築城年不明です。
戦国時代に高田氏が拠っています。
1547年、高田憲頼が信濃国志賀城で武田軍と戦い討死しました。
信濃攻略を目指す武田晴信が佐久郡制圧のため、志賀城を攻めました。志賀城主・笠原清繁は高田憲頼と血縁があったため、憲頼は援軍として志賀城に入りました。また、憲頼は主君・上杉憲政にも援軍を要請しました。河越夜戦で北条氏康にコテンパンにやられた直後なので、反対も多かったようですが・・・この上杉憲政の発した3000人の志賀城救援軍は、小田井原で武田軍に壊滅させられました。頼みの綱を失った志賀城は落城し、高田憲頼も討死しました。
その後、徐々に上野国を北城氏康に侵食され、1550年代に上杉憲政は越後へ逃れました。高田氏はそのまま領地に残り、北条氏に抵抗を続けたと思われます。1560年に長尾景虎(のちの上杉謙信)が関東を攻めた際、高田繁頼も上杉軍に参加しています。
1561年、菅原城が武田軍に攻められました。
この年に西上野の雄・長野業正が没し、武田晴信による上野攻略が始まりました。菅原城も武田軍に包囲され高田繁頼は抵抗しましたが、降伏して開城しました。以後、高田氏は武田家臣となりました。
廃城時期も不明です。
高田氏は1582年の武田氏滅亡後は後北条氏の家臣となりました。さらに、1590年の後北条氏滅亡後、高田直政は信濃塩田村に移り住んだそうです。そのため、この時に廃城になった可能性が高いと思います。
所在地:群馬県富岡市妙義町菅原 GPSログダウンロードページ
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コメント
北方の中宿の集落から登城口あります
先日、地元のお爺さんで、「若い頃、よくこの城山に登った」
という方から、道を教えて頂き、比較的容易に登城してきました。
「ぐんまの城 30選」で、執筆された飯森康広氏が、指摘されている通り、第III郭群のさらに西にある、長大な土塁の西側に到達し、そこから尾根に沿って幾つもの堀切・郭群を経て、主郭に至りました。
尾根に沿って、総延長300m近い大城郭で、感動しました。
2018/10/25 23:20 by cross up! URL 編集
Re:北方の中宿の集落から登城口あります
貴重な地元情報、ありがとうございます!難しい本は拝読していませんが、国土地理院の地図に載っている北側からの道でしょうか?スズメバチが大人しくなる時期に再チャレンジしてみようと思います。今度はGPS持って!
2018/10/26 00:24 by なぽ URL 編集