2014/11/30
鵜沼城/岐阜県各務原市
鵜沼城は犬山城の木曽川対岸にありました。訪問日は2013年7月28日です。

▲対岸から
鵜沼城は犬山橋のすぐ脇にある岩山にありました。別名・宇留間城、宇留馬城、志水山霧ヶ城など。こうやって見るといかにも「要害」って感じがしますよね!
以前は城跡に旅館があったそうです。現在旅館は無くなったのですが、私有地のため立入りできず。遺構は昭和50年代に潰されてしまったそうです。
◆歴史◆
永享年間(1429~40年の間)に大沢利治により築かれました。
大沢利治は和泉より美濃に移り、土岐氏に仕えたそうです。この時代は土岐持益が美濃守護を務めていました。祖父の代に土岐康行の乱があり、以後は庶流の西池田土岐氏が守護となりました。そのため、外様の家臣が重用されることとなり、美濃国内は争いが絶えなかったそうです。大沢氏は戦国時代まで鵜沼の地を支配しました。
1567年、織田信長に降伏しました。
大沢正重は槍術の達人で、「鵜沼の虎」と呼ばれていたそうです。織田信長の美濃攻略に対しても抵抗し続けていました。木下藤吉郎の調略によりようやく織田の軍門に降ったのですが・・・織田信長は大沢正重の心変わりを恐れて亡き者にしようとしました。これにより大沢氏は鵜沼城を去ったのですが、諸説あり定かではありません。
大沢氏の後、鵜沼城は犬山城主・池田恒興の城となりました。以後、犬山城の属城として扱われたようです。
1581年、織田信房の城に?
池田恒興が国替えとなり、犬山城に織田信長の4男・信房が入りました。織田信房は幼名を坊丸といい、岩村城主・遠山景任の未亡人・おつやの養子となりました。おつやは織田信長の叔母(と言っても信長より10歳年下w)で、あの有名な女城主です。岩村城は武田軍に攻められ降伏し、おつやは秋山信友と再婚しました。以後の悲劇はあまりに有名なので省きます。
武田家滅亡の直前、坊丸は尾張に帰されました。これは武田勝頼による織田信長との和解へ向けた行動の一環だったようです。この直後に元服し、織田信房と名乗るようになりました。
1582年、織田信雄の家臣・中川定成の城となりました。
織田信房は本能寺の変で討死しました。清須会議の結果、尾張は織田信雄の領地となり、犬山城には家臣の中川定成が入りました。
1584年、廃城となりました。
小牧・長久手の戦いで池田恒興の奇襲により落城しました。池田恒興はこの戦いで羽柴秀吉と織田信雄のどちらに味方するか注目されていました。
信雄方の城を攻めたことで、羽柴方であることを世に示したのでしょう。しかし、池田恒興は長久手で嫡男ともども討死してしまいました。勝利の暁には尾張一国を与えられる約束だったそうですが・・・
両軍和睦の後、尾張は引き続き織田信雄が支配しました。しかし、鵜沼城はこの時に廃城にされました。
所在地:岐阜県各務原市鵜沼南町
岐阜県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント