2014/11/08
黒野城/岐阜市
黒野城跡は地図ですぐ見つけられます!訪問日は2013年7月28日です。

▲城址碑と説明板
辿り着いてワクワクしながら城内に入ると、コレがありました。せっかくの城址碑の前にプランター置かれるとガッカリします


▲土塁
城内は噂通り野球のグラウンド。そして、その周りは土の壁

ぐるっと1周しっかり囲んでいます。前日見た加納城程ではありませんが、外が見えなくなる閉鎖世界に萌えましたヽ(´∀`)ノ

▲親水公園っぽい堀
内側を堪能したら、今度は外側!外周は堀でしっかり囲まれています。

▲菖蒲畑になった堀
ある場所は親水公園のように通路が。またある場所は菖蒲畑。そしてまたある場所はしっかり水を湛えた水堀。

▲水堀
ぐるっと1周回りましたが、コンパクトながら色んな表情を見せてくれます。市街地にある平城ですが、本丸だけでもこうやって残してくれたことに感謝です。城があった場所や時期を考えると、当時は総石垣だったのではないかと思います。
◆歴史◆
1594年、加藤貞泰が黒野4万石の領主となります。
加藤貞泰は加藤光泰の次男で、父が朝鮮で病死したため家督を継ぎました。しかし、14歳で徳川家康を監視する甲斐24万石を治めるのは無理だと思われたのでしょう。加藤氏ゆかりの地である美濃国黒野4万石に国替えされました。加藤氏は安藤氏の一族で、昔から黒野を本拠としていたそうです。移って来た当初は領内のお寺を仮住まいとして、黒野城の築城にとりかかりました。
1597年、黒野城が完成しました。
以後、加藤貞泰は黒野城を居城とします。関ヶ原の戦いでは初め岐阜城の織田秀信(西軍)に従いました。しかし、岐阜城落城後は東軍に従い、本戦では島津軍と戦いました。そのため所領を安堵されました。
1610年、廃城となりました。
加藤貞泰が2万石加増の上、伯耆国米子へ移封となりました。表向きは関ヶ原の戦いの戦功によるものとされました。
一説には長良川に築いた尉殿堤が原因ではないかと言われています。黒野側の堤が高くなると、大雨の時に川の反対側に水が溢れます。その反対側には加納藩があり、徳川家康の娘が嫁いでいました。この移封により尉殿堤の建設は中断され、結局完成しなかったそうです。
黒野は以後天領となったのでしょうか?Wikipediaだと幕末は天領だったと書いてありましたが・・・加藤氏は更に伊予国大洲藩6万石に移され、そのまま明治時代を迎えました。
所在地:岐阜市黒野
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