2022/02/27
峰上城/千葉県富津市
峰上城は、七つ堀切で有名なお城です。訪問日は2022年1月15日と2月23日です。

別ウィンドウで表示 赤線:1月15日 青線:2月23日
峰上城は、南北に細長い尾根上に築かれた連郭式の山城です。
とにかく堀切が多く、登ってくる途中にも道端に数条見られます。
道が狭いのですが、城跡手前の堀切(1の所)に停めることが出来ます。
大門跡から広い畑の要害、藪の中城、本城と曲輪が連なります。
本城南東の高い部分12が環神社で、その裏に巨大な堀切があります。
高さ10メートル程の垂直な崖なので、ここからは下りないで下さい。
七つ堀切へは尾崎曲輪経由か、本城下から行くことが出来ます。
尾崎曲輪は、5の虎口から分岐する道の先にあります。
その一番高い曲輪の奥から、崖に沿って道があります。
その先に本城から見下ろした帯曲輪があり、堀切へ続きます。
七つ堀切の1つ1つが巨大で、何かしら執念を感じます。

1 城跡手前の堀切
城跡へは、北端から白セメントの細道を進みます。
この道、Google Mapには載っていません。
左側に数条の堀切を見た後、坂がキツクなった所がココです。
ヘアピンカーブの奥に少しスペースがあり、ここに停められます。
実はココも堀切の1つで、手前側にはお墓があります。
この堀切、冷静に見ると7つ堀切の1番めよりもデカイです


2 大門跡
1の堀切から坂道を登ったココが、大門跡と呼ばれる虎口です。
台地端を少し掘り込んだだけのシンプルな造りです。
1列に並んで登って来る敵を、悠々と待ち構えて迎撃出来ますネ!

3 要害
大門跡から先は、かなり広い平坦地となっています。
ここが要害と呼ばれる曲輪で、民家と畑があります。
迷惑にならないよう通り過ぎましょう。

4 中城へ続く道
要害は土の壁に行き当たり、道は右へ逸れます。
土の壁に沿って進むと、中城、本城へ至ります。

5 尾崎曲輪への道
ココでは右脇にも道があり、段差を掘り込んだ虎口があります。
この道を進んだ先が尾崎曲輪ですが、こちらは後で紹介します。

6 笹が密生する中城
土の壁沿いに進むと、通路の左側がこんな感じになります。
ここが中城と呼ばれる二郭相当の曲輪です。
これは流石の私でも、進んで中に入ろうとは思いません


7 本城の虎口
笹藪曲輪を脇目に進むと、段差のある本城の虎口があります。
この手前右下が尾崎曲輪の最上段です。
通路はありませんが、段差が2、3メートルなので下りられます。
ここから下りた先は、20メートル程濃ゆい笹の藪ですけど


8 本城南端の土塁
本城も藪に覆われており、西→南の分厚い土塁上を進みます。

9 本城
本城の内部は荒れるに任されています。
ですが「このくらいなら」と、1周歩いてみました。

10 本城から見た中城
本城からは、5メートル程下に広大なジャングルが見えます。
中城は通路沿いは笹が密生していますが、中はそれ程でも・・・
藪城ばかり歩いてるせいか、感覚が少しズレてるかもしれません。

11 環神社へ続く石段
1周して土塁上に戻り、さらに上を目指します。
土塁の奥からは、古びた石段が続いています。

12 環神社
石段の最上段にあるのが環神社です。
お城を守る神様に二礼二拍一礼のご挨拶(*´人`)

13 神社背後から見える堀切
神社の背後に小さな平坦地があります。
その先に断崖絶壁があります。
ここが七つ堀切で一番大きな堀切です。
堀切の切岸は垂直で、高さは10メートル程あります。
検索最上位の大御所様一行はここを下りたそうですが・・・
危険この上ありませんし、安全に行けるルートがあります。
大きく分けて2つほど(`・ω・´)v
後程紹介しますので、絶対にここから下りないで下さい。

14 尾崎曲輪(二段め)
七つ堀切へのルートその①は、尾崎曲輪から行けます。
尾崎曲輪への行き方も2通りありますが・・・
一応まだ二足歩行してるので、道らしいルートから。
要害と中城の境にある5の虎口を下ります。
その先が尾崎曲輪の2段めで、藪を突っ切ります。

15 尾崎曲輪(三段め)
奥が笹藪になっており、突き抜けた所から下の段が見えます。
実は、下の段へは藪の手前から右下に下りる道があったりします。
1回目に訪ねた時にはその道に気付かず、つい藪を掻き分け

下の段は常に水が流れ込み、ぬかるんでいます。
後程こちらに下りますが、水を通さない長靴を強く勧めます。

16 尾崎曲輪(一段め)
尾崎曲輪は三段ありますが、上り下りする通路はありません。
なので、適当に上りやすそうな所を上がりました。
一番高い段は東西に長く、城の本体側が笹藪に覆われています。
本城虎口手前(7の辺り)から、その藪の中に下りることが出来ます。
2回目に来た時に試してみました


17 16の尾崎曲輪から崖に沿って続く道
尾崎曲輪に来たのは、七連堀切へ行けそうだと感じたからです。
七連堀切は城側にあるので、通路はそっち側にあると思っていました。
そう思い笹藪の中を彷徨いましたが、通路は見つからず。
諦めかけて外周を歩いていたら、奥から手前に下りる道がありました。
城キチの習性を逆手に取った隠し通路デスね!

18 本城土塁下の切岸
崖っぷちお一人様細道を過ぎると、曲輪並に広くなります。
この光景、造海城でも見た岩盤を削った切岸です。
ここは本城の土塁下に位置し、武者返しのようになっています


19 環神社下にある曲輪
環神社手前から右下に見えたのが、この長い曲輪です。
幅は10メートル程あり、削平もしっかりしています。
ここを奥へ進みます。

20 環神社下にある巨大な堀切
そしたらほら、辿り着きました。
7連続堀切の一番最初、環神社裏から見えた巨大堀切です



この幅、この深さの岩を断ち切るその労苦。
想像するだけで、手がマメだらけになりそうです( ノД`)

21 7連続堀切の2番め
ここまで来ればコチラのもんです。
2つ目の堀切様は、かなりワイルドです。

22 7連続堀切の3番め
3つ目の堀切様です。
1つ目から2つ目は左右どちらからも行けます。
しかし、2つ目から先の右側は、岩盤むき出しの断崖絶壁。
左側は土の緩い傾斜なので、こちら側をひたすら進みます。
(上の地図の20~27の青い線を参照下さい)

23 7連続堀切の4番め

24 7連続堀切の5番め

25 7連続堀切の6番め

26 7連続堀切の7番め
同じ尾根に並んであるのに、それぞれが強烈な個性を放ちます。
堀切様って、本当に奥が深いです



27 7連続堀切の先の尾根
7つあると言われると、もっとあるのでは?と思ってしまいます。
私って本当に天邪鬼です。
だからこそ、自分の足で歩いて自分の目で確かめたくなります。
連続堀切の先は、緩やかな細尾根が真っすぐ続いています。
堀切で断ち切らなければ、環神社までこんな感じだったんですね。
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7連続堀切を拝めた喜びで、アドレナリン大解放!
大満足で次の城跡へ向かいました。
しかし、時間が経つと「もっといいルート無い?」と疑問が。
GPSの軌跡を見ていると、本城奥と七連堀切がつながりそう。
等高線も同じ幅の中に収まっています。
本城奥へ行った時は「もういいや」で引き返したような気が・・・
気になり出すと、確認せずにはいられなくなります。
ということで、それを確かめに再度訪ねました。
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2回目は、1回目で見落としたり気になった所を補足的に歩きました。
かなり飛び気味に紹介するのでわかりづらいかも知れません

本城→本城の下→連続堀切→尾崎曲輪の順に時計回りに紹介します。
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A 本城北東下の曲輪
「もしかしたらこっちから行ける?」と思ったのは、8の左奥です。
本城の奥、環神社の下は細長い曲輪になっています。
その一番奥まで見た記憶が無く、もしかしたら?と思いました。
結論は、先端は断崖の行き止まりでした。
しかし、真下には奥へ続く細い曲輪があります。
下りたその先から7連続堀切に行けるのでは?と考えました。
下の曲輪までは高低差が10メートル程あります。
「どこかから下りられないか?」と目を皿にしたら、ありました。
通路ではありませんが、1か所だけ階段状の場所があります。
2度ほど折れながら、下の平坦地に下りることが出来ました。
別の大御所様は「中城の奥から行ける」と書かれていますが・・・
ここは中城からも段差があって、下りられそうにありません。
本城下から奥は、誰も紹介していない未知の領域です。
動画撮るのに夢中で、静止画を撮らず・・・
後程アップする動画には、出来るだけ入れようと思います

紆余曲折ありながら(主に倒木)、何とか辿り着けましたヾ(*´∀`*)ノ
堀切様達は上で紹介したので、以下(略)とします。

B 下へ続く
さて、本城から下りたら、中城側に目を引く光景があります。
城キチなので、ついつい見に来たのがコレです。
切通しのようになっており、下へ通じる通路のようです。
往時は北からここを通って上がったりしたのかもしれません。
七ツ堀切までの行き方や様子を、動画で撮影しました。
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7連続堀切から崖っぷちを通り尾崎曲輪へ!
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C 尾崎曲輪脇の堀切
7連続堀切を見て興奮し忘れていたのが、尾崎曲輪下の堀切です。
尾崎曲輪へは、7連続堀切から崖っぷちを通って行けます。
(上の16→20を逆に進みます)
崖っぷちとは言え、傾斜が緩いので落ちてどうこうは無いと思います。
細道から尾崎曲輪を上段→中段→下段と下り、その先がココです。
下りる道など存在しませんが、これを見ちゃった城キチは等しく・・・

E 堀切の下
道無き急斜面を下り、堀底へと降り立ちます!
それだけでは飽き足らず、さらに下を目指します。
上から見て「帰りにどうやって上がろう」とは思いません。
思考力が回復するのは、下りてしまってからデス。
それが城キチという生き物デス(`・ω・´)
業の深さを思い知る前に、堀の深さを堪能します

堀底の形に沿って、手を伸ばした位の深さを掘り抜いています。
表面はツルツルで、おまけに苔でコーティングする念の入りよう。
ここを上がるの、とんでもなく苦労しました




D 尾崎曲輪下の曲輪
堀切の下には、尾崎曲輪の切岸に沿って細い曲輪が続きます。
ただそれだけです。
突き当りは左と前が岩、右が断崖絶壁です。
この曲輪の用途がすごく気になります

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話は再び飛んで、帰りの尾崎曲輪です。
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F 尾崎曲輪三段め
1回目は、この段は二段めから見下ろすだけでした。
上の巨大堀切は、三段目の先端に来ないと見えません。
ただ、下りて来ても試練は続きます。
この三段め、水が流れ込んでいて、常にぬかるんでいます。
畔道などなく、端から端までしっかりと・・・
ここを歩くのであれば、水を通さない長靴がお勧めです。
私のトレッキングシューズは、泥一色になりました。

G 尾崎曲輪から戻る道
あと、三段めに簡単に下りる道を帰りに見つけました。
中城から外に出る虎口から、素直に道を進むだけです

それが出来ず、初回は笹藪を数十メートル掻き分けた私・・・
その藪の中には、ちょっとだけ野イバラなんかも混じってます。
痛かったです(´;ω;`)

◆歴史◆
真里谷信興が築いたとされます
真里谷信興は武田信長の孫で、応仁の乱の頃の人物です。
祖父とともに古河公方に従い、扇谷上杉家の領地を侵食。
上総における真里谷家の勢力を確固たるものとしました。
同じ頃、安房では里見義実が同じ手法で勢力を拡大。
やがて両者は境を接するようになります。
北へ勢力を拡大する里見家に備えるため、湊川沿いにラインを形成。
海側に金谷城、造海城、そして内陸に峰上城が築かれました。
真里谷信興は、弟の真里谷信武を城主にしたと考えられています。
1535年頃から真里谷家で内紛が始まります
真里谷家の全盛期を築いた真里谷恕鑑が、1534年に世を去りました。
それとほぼ同時期に、嫡男の大夫(実名不明)も没しています。
この時、既に長庶子の真里谷信隆が当主となっていましたが・・・
真里谷家の親分的存在・小弓公方の足利義明が横槍を入れます。
真里谷恕鑑の正室にはもう1人、真里谷信応という子がいました。
小弓公方は真里谷信応こそが家督を継ぐべきだと主張。
これにより真里谷家は真っ二つに分裂し、争い始めました。
真里谷信隆は峰上城、その子・真里谷信政は造海城に籠城。
小弓公方に攻められた峰上城は落城し、真里谷信隆は造海城へ移ります。
造海城も里見義堯に攻められ、1537年、和歌百首により開城。
真里谷信隆は、後ろ盾だった後北条家を頼り相模国金沢へ逃れます。
峰上城には、真里谷義房が入ったと考えられています。
その翌年、国府台合戦により真里谷義房は討死。
峰上城は真里谷全芳に預けられました。
真里谷全芳は真里谷恕鑑の弟で、家中で大きな発言力がありました。
里見家の城となりましたが・・・
正確な年は不明ですが、1540年頃と考えられます。
当時の状況は、1538年、国府台合戦で小弓公方が討死。
大きな後ろ盾であった小弓公方を失い、真里谷家は動揺します。
同じく小弓公方に従っていた里見義堯は、戦力を温存したまま離脱。
安房に戻り、小弓公方方から離反しました。
そして上総へ攻め込み、真里谷家の領地を侵食し始めました。
峰上城には、正木兵部大輔が入ったと考えられています。
正木兵部大輔は金谷城周辺を本拠とする内房正木氏です。
元々は里見家に従っていましたが、後北条家に従うようになります。
1550年代には上総湊一帯を支配し、里見家の北上を阻みました。
この騒乱は「房州争乱」または「房州逆乱」と呼ばれています。
吉原玄蕃ら「尾崎曲輪二十二人衆」が暗躍したとされます。
あの面積で22人は少し狭い気もしますが・・・
正木兵部大輔が里見家に帰参後、廃城となりました。
里見家は後北条家と上総湊周辺で激しい争奪戦を繰り返しました。
そんな一進一退を繰り返している中、関東に大激震が走ります。
1560年代になると、越後の長尾景虎(上杉謙信)が関東に出陣。
以後、1570年頃までほぼ毎年、関東に出陣するようになります。
そのたびに後北条家臣は各地で寝返り、冬に復帰する動きを繰り返します。
正木兵部大輔は後北条軍の後ろ盾が次第に得にくくなり・・・
1567年、里見軍は三船山合戦で北条氏康本隊を撃破。
後北条軍は上総から撤退し、里見家は下総にまで勢力を拡大。
その後、越後の上杉軍が関東に来なくなり、里見家は次第に押されます。
そして1577年、後北条家が優位な状況で里見家と和睦。
房相一和と呼ばれる状況が続き、正面から争うことが無くなりました。
正木兵部大輔が里見家に帰参したのは、おそらくこの頃と思われます。
里見家に帰参した内房正木家は、正木淡路守が当主となりました。
正木淡路守は造海城に移り、峰上城は歴史に登場しなくなります。
所在地:千葉県富津市上後 GPSログダウンロードページ
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