2014/11/09
川手城/岐阜市
川手城跡には済美高等学校があります。訪問日は2013年7月28日です。

▲城址碑のある場所
地図で見ると高校の真ん中を通る道沿いにあります。この道はレンガ敷きで、am7:00~pm5:00までは歩行者専用となります。また、門はくぐらないものの実質的に学校の中という事で、とても気を遣いました。
前日に加納城を見た後で来たのですが、この時は見つけられず。2回通り直したのですが、わからなかったのでそのままホテルへ行きました。そして気を取り直して翌日の早朝に出直すと、あっさり見つかりました。

▲城址碑と説明板
早朝ということで生徒さんも居らず、のんびり見学しました。まぁ、一般道沿いなのだからそんなに萎縮する事も無いのですが

一度は「見つからなかったんだからいいやー」と諦め掛けていましたが・・・美濃の歴史を調べると、ここは絶対外せない場所だとわかりました。美濃の守護所があり、ここを中心に美濃の歴史が動いていたのですから

◆歴史◆
1353年、土岐頼康により築かれました。
川手城は革手城とも表記され、土岐頼康により築かれました。頼康は土岐氏で3代目の美濃守護で、観応の擾乱での戦功により尾張守護も兼ねていました。2カ国の守護となり、それまでの長森城では手狭になったというのが築城の理由のようです。頼康は翌年には幕府の評定衆となり、1560年には更に伊勢守護も兼任するようになりました。
革手城は軍事的なものというよりも居館的な造りだったそうです。応仁の乱では京から公家が避難して来ており、「西の山口、東の革手」と言われていました。このことから、相当な規模であったと想像されます。
1495年、船田合戦により焼失しました。
船田合戦は土岐氏の家督争いに絡んだ斎藤家中の乱です。これは土岐成頼が嫡子・政房でなく末子・元頼に家督を継がせようとして戦となりました。
政房側には斎藤妙純が付き、元頼側に斎藤利藤、石丸利光が付きました。斎藤妙純と斎藤利藤は異母兄弟ですが、妙純が持是院家、利藤が宗家を継いでいました。石丸利光は斎藤妙純の家宰ですが、同じ家宰の西尾直教の讒言で妙純から疎まれていました。斎藤利藤は斎藤姓と小守護代職で石丸利光を釣り、妙純方の分裂を図ったのです。
・・・ザックリ経緯を書こうと思いましたが長くなりそうなので・・・
戦いは土岐政房・斎藤妙純方が勝利しましたw革手城は戦火により焼失しましたが、再建されています。
1509年、土岐政房は守護所を福光館に移しました。
福光館に移った後の革手城についてはよくわかりませんが・・・後に土岐頼芸が拠ったような感じなので、まだ廃城になっていなかったと思われます。
再び土岐氏の家督争い(土岐頼武vs頼芸)
土岐政房が嫡男・頼武ではなく次男・頼芸を後継者にしようとしました。自身も家督争いで苦労したはずなのに、懲りないヒトですね。土岐頼武には斎藤利良(妙純の嫡孫)、土岐頼芸には小守護代・長井長弘が味方につきました。
1517年に両派は戦火を交え、この時は頼武派が勝利して頼芸派は尾張へ逃れました。
1518年に再び戦いとなり、今度は頼芸派が勝利して頼武派は越前へ逃れました。・・・織田と朝倉の確執ってこの頃生じたのでしょうか。1519年に土岐政房が没すると、朝倉軍を伴って土岐頼武が美濃に入国。連戦連勝を飾り、土岐頼武が美濃守護となりました。福光館が守護所なので、土岐頼芸の居場所は代々の居城・革手城ということになるでしょうか。
まだまだ続いた家督争い(土岐頼武vs頼芸)
1525年、長井長弘が挙兵し、守護代・斎藤利茂の居城・稲葉山城を攻め落としました。余勢を駆って守護所である福光館も攻め落とし、土岐頼芸のもとで実権を握りました。1530年には土岐頼武が越前へ逃れたため、完全に美濃を掌握します。
1532年、廃城になったと思われます。
土岐頼芸は守護所を枝広館に移しました。その3年後、枝広館が洪水に遭うと大桑城に移っています。更に、斎藤利政により美濃から追放され、戻った時には北方城に拠りました。これらの状況から、枝広館に移った時に廃城になったと思います。
所在地:岐阜市下川手
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