2014/11/08
加納城/岐阜市
加納城跡は本丸がよく残っています。訪問日は2013年7月27日のラストです。

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加納城は岐阜城に代わって美濃の中心とすべく、沓井城跡に築かれたお城です。位置はかつての守護所である川手城(革手城とも表記)の近所です。譜代10万石の城として天下普請されており、南北600m、東西300mの規模を誇りました。その縄張りが上の図です。この図は本丸北の出口の所にあるものです。現地なら見やすいのですが、南北逆なのでブログでは見づらいですね


▲本丸南側の堀跡が駐車場
さて、辿り着いたのは南側入口にある駐車場です。石垣の脇にあるだだっ広い場所ということで、ここは堀の跡です。あんまり停まってる車が無かったので、入口のすぐ近くに停めました。(バイクが故障したので、急遽借りたレンタカーです☆)

▲本丸南側の門跡
さて、いよいよ入るゼヨ!と正面に構えているのが「臆病門」跡の入口です。ココは入口にゲートがあって、よく見たら入れる時間が決まっていました。
・5月から9月まではam7:30~pm7:00
・10月から4月まではam8:30~pm5:00
この日到着したのが夕方5時半過ぎ。季節によってはアウトなのでありました。訪問予定の方は、朝早過ぎたり夕方遅過ぎないよう気をつけて下さい。

▲左側に石垣が☆
さっき名前を知った臆病門の左側には、チラッと石垣が


▲本丸内部
さて、意気揚々と城内に入ると、内側はだだっ広い広場でした。ただし、地平線の彼方は土の壁で遮られています。結構な高さの土塁に囲まれているじゃありませんか


▲本丸を囲む土塁
高さは大体5m無い位でしょうか。本丸をぐるっと1周囲んでいます。もう少し時間に余裕があれば登ってみるのですが・・・まだまだ他に見るつもりでいたので、見上げるだけにしておきました。

▲本丸北側の門外にある解説板
南側から入ったので、出たのは北側です。ここから本丸を外側からじっくり見ます。こちら側には縄張図や想像図、かなり長い説明文の載った案内があります。どうやらこちらがメインの入口のようですねw一番上に載せてる図は、こいつに描かれているものを抜粋しています。

▲本丸北側の石垣
お城の外側に出てまず目が行くのは、結構な高さのある石垣です。南側の3倍程あるでしょうか。関ヶ原以後に築かれたので、石垣造りが当たり前だったんですね。加納城の築城には、主に岐阜城の資材が使われたのだそうです。・・・ということは、ココに積まれた石は元々は岐阜城にあった可能性が高い訳ですね!

▲本丸西側の石垣
北側から出て西側の石垣をじっくり見るつもりでいたのですが・・・西側の石垣は大部分が木に覆われてとても見づらい状態でした。その前にはロープも張ってあるので、「崩落注意・立入禁止」といった所でしょうか。安全第一なのはとてもよくわかるのですが、せっかくの石垣が殆ど見えずガッカリです。

▲垣根の合間から見える石垣
でも!
人のする事に完璧なんてあり得ません。こんな感じでチラッと見える所もありました♪
◆歴史◆(ほとんど守護代斎藤氏の歴史です)
1445年、斎藤利永により沓井城が築かれました。
沓井城は加納城の前身です。守護所である川手城を守るため築かれました。川手城は城というよりも広大な居館だったようです。
斎藤利永は斎藤宗円の子で、有名な斎藤妙椿の兄でもあります。それまで斎藤氏は土岐氏の家宰でしたが、守護代・富島氏を殺害して守護代となりました。これが1444年の事で、ここから斎藤氏vs富島氏の戦いが始まりました。戦いは守護・土岐持益を擁する斎藤方が優勢でしたが・・・宗円は1460年に京の守護代邸に帰る途中で暗殺されてしまいました。斎藤氏vs富島氏の戦いは、応仁の乱で斎藤妙椿が勝利するまで続きました。
1495年、船田合戦がありました。(土岐政房vs元頼)
守護・土岐成頼が嫡子・政房でなく末子・元頼に家督を継がせようとして戦となりました。土岐成頼には守護代・斎藤利藤、石丸利光が付き、土岐政房・斎藤妙純と戦いました。斎藤利藤と斎藤妙純は異母兄弟で、妙純は斎藤妙椿の養子となり持是院家を継ぎました。戦いは土岐政房・斎藤妙純側が勝ちました。
船田合戦の余波・・・
翌1496年、近江で京極氏と六角氏の戦いが始まりました。京極氏は船田合戦の時に斎藤妙純に味方しており、妙純は援軍として近江に出陣しました。この戦いは戦力が拮抗して膠着状態となり、結局和睦してそのまま引き上げたのですが・・・戦いで不利益を被った馬借衆が土一揆を起こし、斎藤妙純と嫡子・利親が討死しました。美濃一の実力者が後継者ともども討死したため、美濃は混乱に陥りました。
再び土岐氏の家督争い(土岐頼武vs頼芸)
土岐政房が嫡男・頼武ではなく次男・頼芸を後継者にしようとしました。自身も家督争いで苦労したはずなのに、懲りないヒトですね。土岐頼武には斎藤利良(妙純の嫡孫)、土岐頼芸には小守護代・長井長弘が味方につきました。
1517年に両派は戦火を交え、この時は頼武派が勝利して頼芸派は尾張へ逃れました。
1518年に再び戦いとなり、今度は頼芸派が勝利して頼武派は越前へ逃れました。・・・織田と朝倉の確執ってこの頃生じたのでしょうか。1519年に土岐政房が没すると、朝倉軍を伴って土岐頼武が美濃に入国。連戦連勝を飾り、美濃守護となりました。
まだまだ続いた家督争い(土岐頼武vs頼芸)
1525年、長井長弘が挙兵し、守護代・斎藤利茂の居城・稲葉山城を攻め落としました。余勢を駆って守護所である福光館も攻め落とし、土岐頼芸のもとで実権を握りました。1530年には土岐頼武が越前へ逃れたため、完全に美濃を掌握します。
1538年、沓井城は廃城となりました。
こんどは守護代・斎藤氏と長井規秀(のち斎藤道三)の戦いです。長井規秀は土岐頼芸方であった長井長弘により大出世しています。長井長弘に見出されて家臣に取り立てられ、西村姓から後に長井姓を許されました。しかし1533年、長井規秀は不行跡を理由に主を殺害し、ついに長井氏を乗っ取りました。
1536年、主・土岐頼芸を守護にすると、長井規秀はその右腕として実権を握りました。規秀の野望はまだまだ満たされず、次のターゲットは名門・斎藤氏の名跡盗りとなりました。1538年に守護代・斎藤利茂の甥で沓井城主・斎藤利良が没しました。斎藤利良は実権はありませんでしたが、持是院家の家督を継いでいました。この機会を逃す長井規秀ではありません。さっそく斎藤利良の名跡を勝手に継ぎ、斎藤新九郎利政と名乗るようになりました。
この時に主を失った沓井城は廃城となりました。
1601年、徳川家康により加納城が築かれました。
前年の関ヶ原の戦いで、岐阜城の織田秀信(織田信長の嫡孫)は西軍に味方しました。そのため改易されて高野山に追放され、岐阜城は破却されました。その後、徳川家康が自ら縄張りを行い、天下普請により加納城が築かれました。建築資材は廃城となった岐阜城のものが使われ、家康の娘婿・奥平信昌が城主となりました。この時に地名も岐阜から加納に変更されました。
1632年、奥平忠隆が嫡子が無いまま没したため改易。大久保忠職が一時的に城主となります。
1639年、戸田光重が城主となります。
1711年、安藤信友が城主となります。
1728年、落雷により御三階櫓が焼失。
1755年、永井信陳が城主となります。そのまま明治維新まで永井氏の居城となりました。
1872年、廃城令により廃城となりました。
所在地:岐阜市加納丸の内
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