2014/11/05
美江寺城/岐阜県瑞穂市
美江寺城(みえじじょう)跡は中小学校となっています。訪問日は2013年7月28日です。

▲中小学校
平城の跡って学校とかお寺になってる所が多いですね。美江寺城跡も小学校になっています。で、夏休み期間中の訪城でしたが、門扉がちょっとだけ開いてます。入ってイイんですね


▲城址碑と説明板
抜き足、差し足・・・・でもなく「見学」させて頂きました。
他の所もでしたが、学校内に城址碑などがある所ってだいたい入れますね。
ここでもちゃんとバッチリ拝見することができました。

▲土塁の痕跡
平城跡は大体遺構が潰されてて何も無い所が多いのです。が、ここは辛うじて土塁の痕跡が残っていました!これだけでもスゴイ事なのですが・・・私がここに通うガキンチョだったら、何も知らずにスコップで穴掘るかも

◆歴史◆
文明年間(1469~86年の間)に和田八郎により築かれたと云わります。
応仁の乱前後の美濃では、守護代の弟・斎藤妙椿が力を持っていましたが。妙椿の系統は宗家とは別流の持是院家と呼ばれ、後に守護代となりました。以後の美濃では守護の土岐氏、守護代の斎藤宗家、持是院家とが3つ巴となります。
すっかり和田氏の話題から反れましたが、和田氏は美濃守護・土岐氏に仕えていました。・・・そりゃ美濃の土豪なんだから当たり前やん!って言われそう

1542年、斎藤利政(道三)に攻め落とされ、廃城となりました。
この頃の当主・和田高行は、土岐頼芸に仕えていました。土岐頼芸は兄の子・土岐頼純と家督を争っていましたが、1539年に和睦しました。
しかし、右腕と頼りにしていた斎藤利政が1541年に土岐頼芸の弟・頼満を毒殺。これにより両者の対立が激化して、土岐氏vs斎藤氏の戦いが本格化しました。
この戦いで土岐頼純が拠っていた大桑城が落城し、頼純は越前へ逃れました。余勢を駆った斎藤軍に攻められ、和田城も落城しました。和田氏は近くの十七条城も支配していましたが、この戦いで滅びたようです。和田城は廃城となり、十七条城はこの頃に斎藤方の林氏の持ち城になったと思われます。
土岐頼芸も一時は尾張に追放されましたが・・・尾張の織田信秀(信長の父)、越前の朝倉孝景の助力を得てすぐに美濃に戻ってきました。そして、1552年に再び追放されるまで、斎藤利政と戦い続けました。
所在地:岐阜県瑞穂市美江寺
岐阜県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント