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美江寺城/岐阜県瑞穂市

美江寺城(みえじじょう)跡は中小学校となっています。
訪問日は2013年7月28日です。

美江寺城/①中小学校
▲中小学校

平城の跡って学校とかお寺になってる所が多いですね。美江寺城跡も小学校になっています。で、夏休み期間中の訪城でしたが、門扉がちょっとだけ開いてます。入ってイイんですね!!

美江寺城/②城址碑と説明板
▲城址碑と説明板

抜き足、差し足・・・・でもなく「見学」させて頂きました。
他の所もでしたが、学校内に城址碑などがある所ってだいたい入れますね。
ここでもちゃんとバッチリ拝見することができました。
美江寺城/③土塁
▲土塁の痕跡

平城跡は大体遺構が潰されてて何も無い所が多いのです。が、ここは辛うじて土塁の痕跡が残っていました!これだけでもスゴイ事なのですが・・・私がここに通うガキンチョだったら、何も知らずにスコップで穴掘るかもあせる


◆歴史◆

文明年間(1469~86年の間)に和田八郎により築かれたと云わります。

応仁の乱前後の美濃では、守護代の弟・斎藤妙椿が力を持っていましたが。妙椿の系統は宗家とは別流の持是院家と呼ばれ、後に守護代となりました。以後の美濃では守護の土岐氏、守護代の斎藤宗家、持是院家とが3つ巴となります。

すっかり和田氏の話題から反れましたが、和田氏は美濃守護・土岐氏に仕えていました。・・・そりゃ美濃の土豪なんだから当たり前やん!って言われそうあせるそのくらい和田氏の事はサッパリわかりませんでした。

1542年、斎藤利政(道三)に攻め落とされ、廃城となりました。

この頃の当主・和田高行は、土岐頼芸に仕えていました。土岐頼芸は兄の子・土岐頼純と家督を争っていましたが、1539年に和睦しました。

しかし、右腕と頼りにしていた斎藤利政が1541年に土岐頼芸の弟・頼満を毒殺。これにより両者の対立が激化して、土岐氏vs斎藤氏の戦いが本格化しました。

この戦いで土岐頼純が拠っていた大桑城が落城し、頼純は越前へ逃れました。余勢を駆った斎藤軍に攻められ、和田城も落城しました。和田氏は近くの十七条城も支配していましたが、この戦いで滅びたようです。和田城は廃城となり、十七条城はこの頃に斎藤方の林氏の持ち城になったと思われます。

土岐頼芸も一時は尾張に追放されましたが・・・尾張の織田信秀(信長の父)、越前の朝倉孝景の助力を得てすぐに美濃に戻ってきました。そして、1552年に再び追放されるまで、斎藤利政と戦い続けました。


所在地:岐阜県瑞穂市美江寺

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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