2014/10/19
十九条城/岐阜県瑞穂市
十九条城跡には津島神社と受念寺があります。訪問日は2013年7月28日です。

▲津島神社
ここへは県道204号「十九条西」交差点から行きました。周りが住宅街で風景が似ているので、そっちからの方が道はわかりやすいです。ただ、橋を渡って鋭角に曲がるのがクルマではちとつらかったです。道を曲がるとすぐに津島神社の鳥居が見えます。

▲受念寺
津島神社の左手前には受念寺があります。同じ敷地にお寺と神社がセットになっています。明治の廃仏毀釈までは両者が混交されているのが一般的だったようです。お寺の敷地の端っこに小さなお社があるのはよく見かけますが・・・こんな形でハッキリ残っているのも珍しい気がしました。
◆歴史◆
1526年、斎藤利良によって築かれました。
これは美濃守護の土岐頼武と土岐頼芸の間の家督争いによります。斎藤利良は斎藤妙純の孫で、土岐頼武方でした。十九条城は東にある川手城の支城として築かれたとされます。ということは、土岐頼芸は西の大垣辺りから攻めて来たのでしょうか?・・・と思ったのですが、両者の後ろ盾は
頼武:守護代・斎藤利茂、前守護代・斎藤利良、六角氏、朝倉氏
頼芸:小守護代・長井長弘、長井新左衛門尉、織田氏
といった感じです。どうやら尾張の織田信秀を警戒して築かれたようですね。この辺りは後に森部の戦や軽海の戦など、尾張→美濃を攻めるルートだったようです。後に織田信秀が岐阜を飛ばして大垣を占領したというのも頷けます。
1530年、一度役目を終えました。
土岐頼武が越前へ逃れたため、役目を終えて廃城となりました。後に頼武の子・頼純が美濃に復帰しますが、ずっと東の大桑城に入りました。
1561年、織田信長により再度整備されました。
斎藤義龍が没した2日後、織田信長は美濃に向け出陣しました。森部の戦で斎藤軍に勝利した後、十九条城跡を再整備して城を築きました。織田信益を城主として、美濃攻略の拠点にしようとしました。
1562年、再び廃城となりました。
さすがに目と鼻の先に軍事拠点を構えられて黙っちゃいられませんよね。斎藤龍興は十九条城攻略のため挙兵し、織田信長も出陣しました。この時の戦いは軽海の戦と呼ばれ、斎藤方が勝利しました。織田信益は討ち取られ、十九条城は落城して廃城となりました。
所在地:岐阜県瑞穂市十九条
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