2014/10/18
柳津城/岐阜市
柳津(やないづ)城跡には光澤寺があります。訪問日は2013年7月27日です。

▲光澤寺
光澤寺は浄土真宗大谷派のお寺で、柳津城の本丸跡にあるんだそうです。だからと言って遺構がある訳ではありませんが


▲説明板
お寺の山門の前には、お城の説明板とお寺の縁起が刻まれた石碑があります。この両者、並んでると力の入れ方にずいぶんと差が・・・wでも!遠路はるばる訪ねてこういうのがあると「来た☆!」って気になれるのです。もっとこういうのが増えてくれると、城キチとしてはとても嬉しいです^-^
◆歴史◆
1500年頃、竹腰摂津守により築かれました。
竹腰氏は斎藤氏の重臣で、同じ頃に竹腰尚綱が大垣城を築いています。ほかに竹ヶ鼻城や唯越城、岩田城などもあり、有力な一族でした。竹腰摂津守は竹腰尚綱の兄・竹腰重綱か、その子・竹腰重吉だと思われます。
1556年、城主・竹腰重吉が討死し、成吉尚光が城主となりました。
竹腰重吉が長良川の戦いで討死し、叔父の成吉尚光が城主となりました。長良川の戦いは斎藤道三と斎藤義龍の争いで、道三が討死した戦です。この戦いで竹腰重吉は斎藤義龍方でした。そのため叔父の成吉尚光が竹腰氏を継ぎ、後に竹腰摂津守と名乗りました。
1567年、廃城になったと思われます。
この年、織田信長が稲葉山城を攻め落とし、美濃を制圧しました。城主・竹腰尚光は斎藤家中では長井道利とともに主戦論者だったそうで・・・四家老の一人ともなると、ころっと織田信長に仕える訳にはいきませんよね。竹腰尚光はは佐波村に身を隠し余生を暮したと伝わっています。
1586年、木曽川の大氾濫により城跡が流されました。
この時の大洪水により、木曽川の流路が大きく変わりました。それまでの流路は現在の境川だったと考えられています。地図を見ると木曽川がかなり東に移動したのがわかります。この流路の変更により尾張と美濃の国境が変わり、柳津周辺は尾張から美濃に編入されました。
1606年、城跡に光澤寺が移転してきました。
お寺の縁起(石碑)によると、一ヶ城から現在地に移転してきました。お寺の住職は鎌倉時代の柳津光重から28代続いているそうです。
所在地:岐阜県岐阜市柳津町本郷
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