2014/10/12
加賀野井城/岐阜県羽島市
加賀野井城跡周辺は一面の田んぼとなっています。訪問日は2013年7月27日です。

▲城址周辺
地図で見ると木曽川のすぐ西岸にありました。ここら一帯は田んぼとなっていて、道は綺麗な碁盤目状。風景は同じで探すのに苦労しました。やっと辿り着いても説明板はこの木に埋もれていて、すぐ近くでないと見つかりません。

▲説明板と城址標柱
プチ迷子してようやく見つけたのでホッとしました。周りは一面田んぼですが、ここだけちょっと高くなっています。もしかしたら土塁か櫓台でもあったのかもしれませんね。
◆歴史◆
築城年は不明ですが、加賀井氏が居城としていました。
ググって出てくるのは小牧・長久手の戦いと関ヶ原の戦いだけですが・・・小牧・長久手の戦いの時は加賀井重宗が城主でした。
1584年、小牧・長久手の戦いで羽柴軍に攻め落とされました。
この戦いは序盤は小牧で膠着状態でしたが・・・羽柴方が徳川家康の本拠・三河へ向けて別働隊を差し向けた事から急展開となります。しかし、この動きは徳川方にバレたため奇襲は失敗。池田恒興や森長可ら羽柴軍の主力級が討死しました。
劣勢に立たされた羽柴方はここで事態打開を図ります。織田信雄に従っていた美濃の加賀野井城、竹ヶ鼻城などを攻めたのです。これらの城からは徳川家康に援軍要請が出たのですが・・・ここで徳川方を動かすのが羽柴秀吉の狙いでした。しかし、徳川家康は動かず、両城は羽柴軍によって攻め落とされました。城主・加賀井氏は城を包囲する羽柴軍を突破して脱出に成功しました。
戦後、羽柴秀吉は加賀井重宗を召抱えようとしましたが・・・重宗は敵として戦った秀吉に仕えることを潔しとせず、隠棲したそうです。その息子・加賀井重望は秀吉に仕え、加賀井郷1万石を安堵されました。
1600年、加賀井氏は所領を没収され、廃城になったと思われます。
関ヶ原の戦いの直前、加賀井重望は三河の池鯉鮒(今の知立市)での宴に出席しました。この宴は水野忠重が堀尾吉春をもてなすために開いたものだそうです。堀尾吉春は会津へ向かう徳川家康について行こうとしましたが、越前に戻るよう言われました。その帰途に水野忠重に誘われたのです。
この時のメンツを見た印象は・・・
・水野忠重→東軍方として豊臣秀吉に近い重鎮・堀尾吉春の腹の内を探ろうとした
・堀尾吉春→誘われたから呑みに来た
・加賀井重望→水野忠重とは旧知の仲で、万が一のために水野忠重が誘った
なんて思いました。
水野忠重は尾張と三河の境・刈谷の領主で、織田信長と徳川家康の間を行き来していました。本能寺の変の後は織田信雄に従っており、小牧・長久手の戦いでも織田信雄方でした。
堀尾吉春は織田信長に主家を滅ぼされた後、若い頃から豊臣秀吉に仕えていました。秀吉没後は分裂した豊臣家中の橋渡し役をしていますが、徳川家康とも昵懇にしていました。超大物ですが、何を考えているのか見当がつきません。
加賀井重望は小牧・長久手の戦いで秀吉に攻められたので、織田信雄方と思われます。その後秀吉に仕えていますが、父親はそれを潔しとせず隠棲しています。
この三者で呑んでいたのですが、口論となって加賀井重望が水野忠重を殺しました。重望は堀尾吉春にも斬りつけていますが、返り討ちにあって死にました。水野忠重の家臣は当初、堀尾吉春が暴れたのかと思ったそうで・・・そこに、この宴の背景が透けて見える気がしました。
加賀井重望が水野忠重に激高するとすれば、やはり小牧・長久手の戦いの事でしょうか。加賀井城は敵軍に包囲され、援軍を頼んでも一向に助けに来ませんでした。そんな状況で城兵が次々と倒れる中、一点突破で辛うじて虎口を逃れています。
一方、水野忠重は知多半島で敵方の城をいくつも落とす手柄を立てました。両者の小牧・長久手に戦いに対する想いは正反対だったのです。もしも水野忠重がうっかり自慢話でもしようものなら・・・と勝手な想像です

所在地:岐阜県羽島市下中町
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