2014/10/13
森部城/岐阜県安八町
森部城跡には公民館(兼ゲートボール場?)があります。訪問日は2013年7月27日です。

▲森部公民館と説明板
ここも高い土手のすぐ脇にあります。地図では簡単に行けそうに見えますが、現場は超立体的で・・・土手の上の道からだとどこをどう行ったやら、という感じです。辿り着いた公民館は公民館には見えず。まぁ、私のイメージが固定され過ぎな気もしますが。写真では見えづらいのですが、ゲートボール場のまん前に茶色い小さな説明板があります。遺構はありません。すぐ南脇にある金峰神社は稲葉正成が屋敷を構えた場所だと書かれていました。
◆歴史◆
1561年、森部の戦いがありました。
斎藤義龍が没した2日後に織田信長が美濃に出陣し、ここで戦がありました。この戦いでは斎藤六人衆の長井甲斐守衛安、日比野下野守清実が討ち取られました。織田軍はその勢いに乗って十四条の戦いでも勝利し、一気に稲葉山城に迫りました。しかし、攻略することができず撤退しています。
この森部の戦いで、森部城の河村久五郎が活躍したそうです。河村久五郎は津島の禰宜(神職)だったそうです。禰宜をググってみると・・・「ある程度の年齢で知識や経験が豊富な者が務め、祭祀では重要な役割を果たす」んだとか。津島には港があり、織田信長の祖父の代から織田弾正忠家と協力関係にあったのだとか。そのために織田信長の祖父・織田信定は勝幡城に本拠を移したんだそうです。津島を仕切っていたのがおそらく河村久五郎だったんだと思います。
1610年頃、稲葉正成が屋敷を構えたと伝わります。
稲葉正成は稲葉重通(稲葉一鉄の長庶子)の婿養子です。後妻のお福が徳川家光の乳母募集に応募し、春日局になったことで有名な人です。稲葉正成は1607年に1万石で十七条藩主となりました。十七条城は森部から北に10km程の所です。1618年に越後国糸魚川に移っているので、それまでココに居たのかもしれません。
現地の説明板では「不破壱岐守が居城したとも云われる」とも書いてありました。不破壱岐守はググってもぜんぜんわからず・・・
※別件で調べる中で「不破壱岐守」=「不破広綱」と判明しました
(2016.11.20)
近在の不破氏というと、すぐ南の竹ヶ鼻城と氷取城が思い浮かびます。1584年にあった小牧・長久手の戦いで両城とも羽柴秀吉により攻められました。
竹ヶ鼻城主・不破広綱はその後も織田信雄に従い、一宮城の城主となりました。1590年、小田原征伐後の移封を蹴った織田信雄が改易され、そのとばっちりを喰らっています。・・・広綱が壱岐守を名乗ったかどうかはわかりませんが。
氷取城城主で不破広綱の弟・不和大炊頭についてはサッパリわからず。単に地理的に近いのでもしかしたら、というだけです。
所在地:岐阜県安八郡安八町森部
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