2014/10/11
三塚城/岐阜県大垣市
三塚城跡は住宅街となっており、まこと幼稚園に城址碑があります。訪問日は2013年7月27日です。

▲まこと幼稚園
三塚城の城址碑がまこと幼稚園前にあります。住宅街のど真ん中なので場所がわかりづらいと思いきや・・・この道は一方通行なので、それが目印となり、意外にもすんなり到着しました。

▲城址碑
ただし、市街地の平城の宿命か、住宅街に呑み込まれ、遺構はまったくありません。遺構どころか、地形にも「ここにお城があった!」なんて面影も無し。それでも、城址碑があれば私はお腹いっぱいです!
さてここからは完全に個人的な脱線ですが、私はココをたぶん一生忘れません。それは、2013年夏休みの初日、ココでバイクが動かなくなりました。原因は発電機故障によるバッテリー上がり・・・これから一週間の夏休みがパーになるのかと途方に暮れたものでした。
でも、ピンチになるとワクワクするのが悪い癖。JAF呼んで充電を繰り返しながら、近くにあった某大手バイクチェーン店に駆け込みました。それから修理に丸一週間掛かると言われ、これまた近所でレンタカーを借りました。この間のタイムロスが1時間半。バイク修理とレンタカーで出費増となりましたが、一週間の城巡りを続行したのでした。
◆歴史◆
築城年は不明ですが、氏家直元(卜全)の家臣・種田兼久が城主でした。
西美濃三人衆の1人・氏家直元が大垣城主となったのが1559年です。なので勝手な想像をすると、1559年以前からあったか、この時築城されたかだと思います。種田兼久は信濃守を名乗っていました。
ちなみに種田兼久は1561年に加賀野城を攻略しています。城主様の「種田」は「おいだ」と読み、大垣周辺では一般的なのだそうです。
1571年、氏家直元と種田兼久が討死しました。
織田信長による第一次長島攻めで、退却中に一揆勢の奇襲を受けました。氏家直元は柴田勝家隊に属していましたが、しんがりの柴田勝家が負傷したため交代しました。一揆勢の追撃は激しさを増し、石津郡太田郷安江村(海津市貝津町安江)で討死しました。このため、氏家直元の嫡男・直昌が家督を継ぎました。
1583年、氏家直昌の弟・氏家行広が三塚城主となりました。
前年の本能寺の変後、氏家直昌は岐阜城主・織田信孝に仕えていました。しかし、織田信孝が羽柴秀吉と対立するようになると、羽柴側に味方しました。賤ヶ岳の戦いでの動向がわかりませんが・・・岐阜城の織田信孝に備えたのか、当主・氏家直昌が危篤だったのか。氏家直昌の命日がわからないので、前後関係がわかりません。
賤ヶ岳の戦いの後、大垣城は池田恒興が13万石で城主となりました。氏家直昌が病没した後、氏家行広が家督を継ぎ、1万5千石で三塚城主となりました。
1590年、氏家行広が桑名へ移りました。
豊臣秀吉による小田原征伐で功を挙げ、氏家行広は桑名2万2千石へ加増移封しました。その後の三塚城についてはサッパリわからず。この時に廃城になったものと思われます。
所在地:岐阜県大垣市三塚町城田
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