2014/10/11
長瀬城/岐阜県揖斐川町
長瀬城跡は温泉施設脇の丘(小山?)の上にありました。訪問日は2013年7月28日です。

▲砦跡の標柱
地図で見ると谷汲口駅が近く、駅を目印にすれば!と思っていました。しかし、道を走っていても駅がどこかわからず(´・ω・`)温泉施設の脇だという認識もあり、何とかそれらしい所に辿り着きました。しかし、道を進むと温泉施設の中へまっしぐら・・・駐車場っぽい所から山沿いの道が見えたので、ショートカットしました。その道を線路の方へ歩いていると、道端にこれがありました。本当にココ?と心細かったので、こんな標柱1つで不安が吹っ飛びました^^

▲長瀬城跡の標柱
その道を更に進むと、今度は長瀬城跡の標柱が現れました。その後ろには10基ほど石灯籠が並んでおり、それっぽい雰囲気でした。

▲そこから見上げたところ
この辺から城跡に入る道があるのかと思いましたが・・・見上げた斜面に先が明るいので、そんなに高い山ではありません。でも、山へ入って行く道が見当たらず

◆歴史◆
1337年、堀口貞満が砦を築いたと考えられます。
堀口貞満は南朝の武将で、新田義貞の一族です。長瀬から北にある根尾も南朝方の根尾入道が拠っていました。越前の海沿いは北朝方に押さえられており、このルートは北陸と吉野を結ぶ重要な道でした。美濃守護・土岐氏が北朝方だったので、防衛拠点として長瀬にも砦を築いたと思われます。
1338年に新田義貞が討ち取られた後は、その弟・脇屋義助が南朝方の大将になっています。1340年に越前で南朝方が敗れると、脇屋義助らは一時根尾で抵抗を続けました。脇屋義助は程無く吉野へ帰還しましたが、堀口氏は美濃に留まったようです。子孫は大野郡坂本を本拠として坂本氏を名乗り、土岐氏、斎藤氏に仕えました。
1353年、鷹司冬基が城主となりました。
この時に城が築かれた可能性もあります。北朝の後光厳天皇が戦火を逃れて美濃に来た際、随行していた鷹司忠経の子が鷹司冬基です。この時に美濃守護・土岐頼忠の娘を娶り、長瀬に所領を与えられ土着しました。以後、戦国時代まで鷹司氏の居城となります。
1535年、鷹司家中で内紛がありました。
当時の美濃は土岐頼芸と斎藤利政(のち道三)が争っていました。鷹司家中も鷹司冬明(土岐方)と弟・政光(斎藤方)に分裂する事態となっていました。最終的には鷹司政光が兄を敗死させました。
1547年、廃城となりました。
尾張の織田信秀が斎藤利政の稲葉山城を攻めました。この戦いで鷹司氏は当主を含め、ほぼ全滅させられたそうで・・・長瀬領主としての鷹司氏は滅びてしまいました。生き延びた鷹司政光の幼子は斎藤家臣・今井氏に引き取られ、以後今井氏を名乗ったそうです。
所在地:岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲長瀬
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