2014/10/04
吉田城/岐阜県大垣市
吉田城跡は慈渓寺となっています。訪問日は2013年7月28日です。

▲慈渓寺と城址碑
吉田城は別名・北方城とも呼ばれています。吉田城としての遺構はよくわかりませんが、お寺の山門脇に城址碑があります。たまに思うのですが、お寺も見ようによってはお城っぽく見えることがあります。今度眼科に行ってみようかな・・・

▲左斜め前から
でも!これは多分私だけの錯覚ではないかも。ガッチリした塀に囲まれててイカツイ門があって・・・

▲周囲の水路
そして、
◆歴史◆
吉田久ぞうにより築かれたとされます。
年代、築城者ともよくわかりません。この吉田「きゅうぞう」という人物がクセ者で・・・吉田休三が一番有名らしく、南北朝時代に築かれたとするサイトもあります。また、吉田「宗ぞう」や「久ぞう」とう名前も登場して、もうよくわかりません

更に混乱に輪を掛けているのが「北方城」という名前。知ってるだけで4つあります。色んなサイトを見て回ると見事に混ざっていますw
一番それっぽいのは『土岐斉藤軍記』の「安八郡三津屋北方城主、吉田久ぞう」かも。1567年の事について記されているのだそうです。
1600年、関ヶ原の戦いで城主・木村勝正が大垣城で討たれました。
吉田城の名前がもう一度登場するのが、関ヶ原の戦いの時の大垣城です。この時大垣城には西軍が篭っていました。本丸には石田三成の妹婿・福原直高。二の丸には熊谷直盛・庄兵衛親子、垣見一直、木村勝正・伝蔵親子。三の丸には相良長毎 、秋月種長、 高橋元種が居ました。
さて、関ヶ原本戦で西軍が敗れたため、城内はかなり動揺していたようです。井伊直政や水野勝成らの誘いに乗り、三の丸の九州勢が東軍に内応しました。そして軍議と称して二の丸を守備していた5人を殺害し、東軍を引き入れて本丸を制圧しました。
後日談として相良長毎は、1632年に自らの菩提寺に石田三成と5人を供養する石塔を建てました。生き残るため仕方なかったとしても、心の奥底にずっと引っ掛かっていたのでしょうね。
所在地:岐阜県大垣市北方町1丁目
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