2014/10/04
北方城/岐阜県本巣市
北方城跡は住宅街の中にあります。訪問日は2013年7月28日です。

▲北方陣屋跡
常誓寺を目印にして向かったものの、綺麗に区画された住宅街で迷いました


▲陣屋跡正面にある水路
ただし、その真正面にある水路はバッチリ撮っています。後から地図を見直すと、北方城の西側の堀跡っぽく見えます。城キチの直感が何となくで撮らせた写真でしょうか?

▲北方城跡の城址碑・説明板
ここから北上し、お寺の真正面を右折してクランクの所に北方城跡の城址碑がありました。散々迷った挙句にようやく城址碑を見つけた時はガッツポーズでしたヽ(´∀`)ノ
◆歴史◆
明応年間(1492~1501年の間)、伊賀光就により築かれたとされます。
伊賀氏は鎌倉時代初期に稲葉山城を築いた二階堂行政の娘婿・佐藤朝光を祖とするようです。佐藤朝光は伊賀守だったことから伊賀姓を名乗るようになったそうです。そして安藤守就までの代はいずれも伊賀姓の伊賀守を名乗っていて・・・「伊賀伊賀守○○」なんて冗談みたいな名前が家計図に並んでたりします。
1542?~52年の間、土岐頼芸が篭ったかもしれません。
土岐頼芸をWikipediaで調べると、揖斐北方城に拠ったと書かれていました。これは、斎藤利政(道三)との争いで一度尾張へ追放された後、ここに戻ったというものです。ただ、揖斐も含めてと4つの「北方城」を調べましたが、土岐頼芸の事は全く出てこないのです。たぶん誰も書かないから、コピペできないんだろうとは思いますがw
じゃあ、土岐頼芸はどの「北方城」に拠ったんだろう?と勝手に想像してみました。
斎藤利政(道三)が美濃守護・土岐頼芸を追放したのが1541年です。土岐頼芸は追放された先の尾張・織田信秀と、越前・朝倉孝景に助けを乞いました。要請に応じた両家が1542年に美濃に侵攻したため、土岐頼芸は美濃に居場所を確保しました。それが「北方城」です。この時に革手城には兄の子・土岐頼純が入りました。革手城は岐阜市内にある平城です。
さて「北方城」ですが、候補は4つあります。
①揖斐北方城
揖斐北方城は南北朝時代に吉田休三が築いたとされます。その後の歴史は不明ですが、山頂を削平した簡素な造りに見えます。戦国時代に誰かが居城したという記事が無いのが気になりますが・・・
②本巣北方城(ココ)
本巣の北方城は、明応年間(1492~1501年の間)に、伊賀光就が築いたとされます。伊賀氏は土岐氏に仕え、曾孫の安藤守就の代まで続きました。安藤守就は土岐頼芸が追放されてから斎藤道三に仕えたので、有力候補と言えます。
③西保城 別名が「北方城」
西保城は不破氏の居城でした。応仁の乱で活躍した不破小太郎の子・道広が西保城を築いて居城としました。時代的には存在しており、当時の当主・不破光治は西美濃三人衆と行動を共にしていました。
④吉田城 別名が「北方城」
吉田城は『土岐斉藤軍記』に「安八郡三津屋北方城主、吉田久ぞう」の記載があります。ただし、それは1567年の事だそうで、土岐頼芸が美濃を追放された後の記述です。こうして見ると、揖斐北方城と本巣北方城が有力で、西保城もアリといった感じでしょうか。
1552年、安藤守就が斎藤利政(道三)に仕えるようになりました。この年、斎藤氏と土岐氏の争いに決着がつき、土岐頼芸が尾張に追放されました。安藤守就がいつから安藤姓を名乗るようになったのかはわかりませんが・・・
1580年、安藤守就が織田家から追放されました。
理由は武田勝頼と内通していたという嫌疑です。この時期に佐久間信盛や林秀貞(通勝)も追放されています。北方城は稲葉貞通(一鉄)が城主となりました。
1582年、稲葉一鉄により攻め落とされました。
本能寺の変で織田信長が自刃すると、安藤守就が一族総出で北方城を占拠し挙兵しました。そのため、稲葉一鉄により攻められ、安藤一族は自刃して果てました。おそらくこの時に廃城になったと思われます。
1668年、北方城跡に北方陣屋が置かれました。
美濃加納藩藩主・松平光重の3男・戸田光直が5000石で立藩しました。美濃国席田郡の8ヶ村(現在の本巣郡北方町、本巣市の一部)が所領でした。北方陣屋は1868年まで存続しました。
所在地:岐阜県本巣市北方町
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