2014/10/04
本郷城/岐阜県池田町
本郷城跡には大きな土盛りが残っています。訪問日は2013年7月28日です。

▲この先?
本郷城跡へは国道417号の「本郷北」交差点を西に曲がり、最初の道を左折します。すると、「本郷城跡→」の小さな案内があり、その先を見たのが上の写真です。田んぼしか見えません。

▲南から見た所
道があるので進み、突き当たりで右を見たのが上の写真です。一発でここに辿り着くのは難しいと思います。

▲櫓台の入口
てくてく歩いてフェンスの所まで行くと、あれやこれやと賑やか。ここにいっぱい物置くなら、ここに来るまでの案内を充実させた方が・・・心の中のつぶやきですwww

▲縄張図
その中の1枚の説明板にあった縄張図です。輪郭式で内堀と外堀があったんですね!今は内堀の北西角にあった櫓台だけが残っています。

▲櫓台のてっぺん
その櫓台のてっぺんも色々あります。ほんと、狭いスペースにこれでもか!という位にwここにこれだけ置くなら1つくらい案内に回せば・・・独り言ですw

▲城址碑
さてさて、私的に主役は立派な城址碑なのですが見当たらず。確かココにあるはずなのに・・・と探し物モード。でも、ちゃんとありました。木陰にwww
◆歴史◆
南北朝時代の1390年までに土岐頼忠により築かれたとされます。
土岐頼忠は美濃守護・土岐氏の5代めです。土岐頼忠は池田郡を本拠としていたため、土岐西池田家と呼ばれていました。土岐氏の勢力拡大を危惧した足利義満の挑発で1390年に討伐された土岐康行の伯父です。美濃守護となってからの土岐氏の歴史は波乱に満ちていますが・・・長くなる気配が濃厚なので、この辺でw
土岐頼忠の子・頼益の代に国枝氏の居城となります。
1395年に土岐頼忠から家督と美濃守護を譲られました。土岐頼益は居城を土岐氏宗家が本拠とした革手城に移しました。その後を受けて、国枝為助が本郷城の城主となりました。国枝氏は西美濃三人衆筆頭の稲葉氏と密接な姻戚関係があります。以後、国枝氏は6代目の国枝政森まで続きます。
1600年、廃城となりました。
国枝政森は岐阜城主・織田秀信に従っており、関ヶ原の戦いでは西軍に属しました。そのため城は東軍に焼き払われたと伝わります。国枝政森は没落し、1602年5月に失意のうちに没したそうです。
所在地:岐阜県揖斐郡池田町本郷北瀬古
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