2014/10/05
大御堂城/岐阜県大野町
大御堂城は揖斐川沿いにありました。訪問日は2013年7月28日です。

▲道端の案内
地図を見ると、県道の東側に並んで南北に通ってる道沿いにあります。当日は東の相羽城から田んぼの中を真っ直ぐ西へ向かったので、割と見つけやすかったです。神社は木がこんもり茂っている所が殆どなので、とてもよい目印になります。そこへ来て「ん?」とつい見てしまう案内があればもうパーフェクト。家紋っぽいものが描かれていれば、城キチさんなら迷う事はなさげです。

▲八幡社鳥居
神社自体は大きくはなく、城としての遺構もなくてのっぺりした感じです。一応作法として鳥居の所から侵入しましたけどw

▲八幡社社殿
石灯籠が2つ並んだ奥に社殿が見えました。奥にも石灯篭が並んで見えますので、参道はここをまっすぐですね。とくに区切られた訳でも無く、目線で追って空気読めって感じです。

▲竹中半兵衛の由緒など
さて、肝心の城跡としてのモニュメントですが・・・城址碑はありません。東側の道沿いに立派に囲まれた一画があり、その中に竹中半兵衛に関する碑がありました。そう、ここは竹中半兵衛の生誕地とされている所なんです!

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その中に立派な縄張り図がありました。立派過ぎて「ホントかよ?」という位ですwwwこれだけしっかりした造りのお城なら簡単に捨てたりしないと思いますが・・・
◆歴史◆
築城年代は不明ですが、竹中氏が居城としていました。
竹中氏は不破郡漆原を治めていた岩手氏の庶流とされています。岩手信忠の弟・重氏を祖とし、孫の重治(半兵衛)がとても有名です。
1558年、廃城となりました。
竹中重元(半兵衛の父)が岩手忠誠を討ち、岩手城に居城を移したためです。重元から見て岩手氏はかなり近い親戚の筈ですが・・・なぜ戦ったのかを書いたサイトが見つからず、原因はわかりませんでした。
この2年前にあった斎藤道三と斎藤義龍の「長良川の戦い」では、両者とも道三側でした。竹中氏は戦後は義龍に仕えており、岩手氏は反抗を続けたのでしょうか?それとも、西美濃ではよくあった領地の境界争いがあったのでしょうか?知ってる方いたら教えて下さい

尚、この年まで竹中重元は岩手姓を名乗っていた可能性が高いそうです。また、竹中重元は遠江守を名乗るようになりました。「遠江守」の名乗りは岩手氏がしていたものなので、家督争いだったのかもしれません。ちなみに、竹中半兵衛は遠江守を名乗りませんでした。竹中半兵衛の子孫は岩手城(江戸時代は岩手陣屋)を居城とし、明治まで続きました。
所在地:岐阜県揖斐郡大野町公郷
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