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大御堂城/岐阜県大野町

大御堂城は揖斐川沿いにありました。
訪問日は2013年7月28日です。

大御堂城/①道端にある案内
▲道端の案内

地図を見ると、県道の東側に並んで南北に通ってる道沿いにあります。当日は東の相羽城から田んぼの中を真っ直ぐ西へ向かったので、割と見つけやすかったです。神社は木がこんもり茂っている所が殆どなので、とてもよい目印になります。そこへ来て「ん?」とつい見てしまう案内があればもうパーフェクト。家紋っぽいものが描かれていれば、城キチさんなら迷う事はなさげです。

大御堂城/②八幡社
▲八幡社鳥居

神社自体は大きくはなく、城としての遺構もなくてのっぺりした感じです。一応作法として鳥居の所から侵入しましたけどw

大御堂城/③八幡社
▲八幡社社殿

石灯籠が2つ並んだ奥に社殿が見えました。奥にも石灯篭が並んで見えますので、参道はここをまっすぐですね。とくに区切られた訳でも無く、目線で追って空気読めって感じです。

大御堂城/④竹中半兵衛の由緒
▲竹中半兵衛の由緒など

さて、肝心の城跡としてのモニュメントですが・・・城址碑はありません。東側の道沿いに立派に囲まれた一画があり、その中に竹中半兵衛に関する碑がありました。そう、ここは竹中半兵衛の生誕地とされている所なんです!

大御堂城/⑤縄張図
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その中に立派な縄張り図がありました。立派過ぎて「ホントかよ?」という位ですwwwこれだけしっかりした造りのお城なら簡単に捨てたりしないと思いますが・・・


◆歴史◆

築城年代は不明ですが、竹中氏が居城としていました。

竹中氏は不破郡漆原を治めていた岩手氏の庶流とされています。岩手信忠の弟・重氏を祖とし、孫の重治(半兵衛)がとても有名です。

1558年、廃城となりました。

竹中重元(半兵衛の父)が岩手忠誠を討ち、岩手城に居城を移したためです。重元から見て岩手氏はかなり近い親戚の筈ですが・・・なぜ戦ったのかを書いたサイトが見つからず、原因はわかりませんでした。

この2年前にあった斎藤道三と斎藤義龍の「長良川の戦い」では、両者とも道三側でした。竹中氏は戦後は義龍に仕えており、岩手氏は反抗を続けたのでしょうか?それとも、西美濃ではよくあった領地の境界争いがあったのでしょうか?知ってる方いたら教えて下さいあせる

尚、この年まで竹中重元は岩手姓を名乗っていた可能性が高いそうです。また、竹中重元は遠江守を名乗るようになりました。「遠江守」の名乗りは岩手氏がしていたものなので、家督争いだったのかもしれません。ちなみに、竹中半兵衛は遠江守を名乗りませんでした。竹中半兵衛の子孫は岩手城(江戸時代は岩手陣屋)を居城とし、明治まで続きました。


所在地:岐阜県揖斐郡大野町公郷

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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