2014/09/28
相羽城/岐阜県大野町
相羽城跡には八幡神社があります。訪問日は2013年7月28日です。

▲八幡神社
相羽城跡には八幡神社がありますが、遺構はありません。なので、神社撮ったら次!となり掛けましたが・・・

▲城址標柱
鳥居脇の木陰に城址標柱がありました!一応、お城の名前が入ったモニュメントゲットです。

▲力石
こうなると人間、欲が出るものです。他にも何か無いかな?と物色していると、境内の真ん中に石が転がっていました。その脇には「力石」なる標柱が。・・・読み方によっては歳バレ注意です!!

▲城址碑
せっかくだから社殿ぐらいは撮ってくかぁ、と撮影していたら・・・社殿の左側に光り輝く石柱が!こうして第二のモニュメントをゲットしたのでしたヽ(´∀`)ノ
◆歴史(よくわからず)◆
建暦・建保年間(1211~19年の間)、饗庭光俊により築かれたと伝わります。
饗庭光俊は土岐光行の次男で、大野郡相羽を領して饗庭姓を名乗りました。1221年の承久の乱で饗庭光俊は討死します。しかし、その後も数代は相羽城を居城としており、一度廃城になったとみられます。
天文年間(1532~55の間)、長屋景興が垂井から移って来ました。
長屋景興がなぜ垂井から移って来たのか、直接記述されたサイトは見つかりませんでした。ただ、長屋氏はその後の土岐氏と斎藤氏の争いで土岐方として行動しています。1546年に一度追放された土岐頼芸が揖斐北方城へ、土岐頼純が革手城に入りました。
1548年、斎藤利政(道三)により攻め落とされました。
土岐頼芸は尾張の織田信秀の援軍を得て斎藤軍と戦っていました。しかし、1547年に織田信秀は稲葉山城を攻めて壊滅的な敗北を喫しました。また、大桑城に拠っていた土岐頼純もその年の11月に没しました。これらの状況で、織田信秀は斎藤利政と和睦を結びました。そのため、後ろ盾を失った長屋氏や揖斐氏は、斎藤利政に攻め滅ぼされました。
たぶんですが、その後登場する斎藤方の相場国信が城主になったと思われます。相場国信は1556年の長良川合戦(斎藤道三と義龍の戦い)で、義龍側に名を連ねます。そこでは「相場館主」と紹介されており、おそらく相羽城主だったのだと思われます。ただ、その後の足取りが全くわかりません。
相場国信は西美濃18人衆に名を連ねていますが、ここには有名な三人衆が居ません。おそらく・・・ばかりですが、斎藤義龍→龍興と仕えて織田信長に滅ぼされたのかも。この18人衆には竹中重治も名を連ねているので、何とも言えませんが・・・
所在地:岐阜県揖斐郡大野町相羽
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