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相羽城/岐阜県大野町

相羽城跡には八幡神社があります。
訪問日は2013年7月28日です。

相羽城/①八幡神社
▲八幡神社

相羽城跡には八幡神社がありますが、遺構はありません。なので、神社撮ったら次!となり掛けましたが・・・

相羽城/②城址標柱
▲城址標柱

鳥居脇の木陰に城址標柱がありました!一応、お城の名前が入ったモニュメントゲットです。

相羽城/③力石
▲力石

こうなると人間、欲が出るものです。他にも何か無いかな?と物色していると、境内の真ん中に石が転がっていました。その脇には「力石」なる標柱が。・・・読み方によっては歳バレ注意です!!

相羽城/④城址碑
▲城址碑

せっかくだから社殿ぐらいは撮ってくかぁ、と撮影していたら・・・社殿の左側に光り輝く石柱が!こうして第二のモニュメントをゲットしたのでしたヽ(´∀`)ノ


◆歴史(よくわからず)◆

建暦・建保年間(1211~19年の間)、饗庭光俊により築かれたと伝わります。

饗庭光俊は土岐光行の次男で、大野郡相羽を領して饗庭姓を名乗りました。1221年の承久の乱で饗庭光俊は討死します。しかし、その後も数代は相羽城を居城としており、一度廃城になったとみられます。

天文年間(1532~55の間)、長屋景興が垂井から移って来ました。

長屋景興がなぜ垂井から移って来たのか、直接記述されたサイトは見つかりませんでした。ただ、長屋氏はその後の土岐氏と斎藤氏の争いで土岐方として行動しています。1546年に一度追放された土岐頼芸が揖斐北方城へ、土岐頼純が革手城に入りました。

1548年、斎藤利政(道三)により攻め落とされました。

土岐頼芸は尾張の織田信秀の援軍を得て斎藤軍と戦っていました。しかし、1547年に織田信秀は稲葉山城を攻めて壊滅的な敗北を喫しました。また、大桑城に拠っていた土岐頼純もその年の11月に没しました。これらの状況で、織田信秀は斎藤利政と和睦を結びました。そのため、後ろ盾を失った長屋氏や揖斐氏は、斎藤利政に攻め滅ぼされました。

たぶんですが、その後登場する斎藤方の相場国信が城主になったと思われます。相場国信は1556年の長良川合戦(斎藤道三と義龍の戦い)で、義龍側に名を連ねます。そこでは「相場館主」と紹介されており、おそらく相羽城主だったのだと思われます。ただ、その後の足取りが全くわかりません。

相場国信は西美濃18人衆に名を連ねていますが、ここには有名な三人衆が居ません。おそらく・・・ばかりですが、斎藤義龍→龍興と仕えて織田信長に滅ぼされたのかも。この18人衆には竹中重治も名を連ねているので、何とも言えませんが・・・


所在地:岐阜県揖斐郡大野町相羽

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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