2014/09/27
垂井城/岐阜県垂井町
垂井城跡は垂井駅の北西にある専精寺とされています。訪問日は2013年7月28日です。

▲南東から見た所
垂井城の位置は特定されておらず、専精寺の場所だったろうとされています。ここは平らな地形がちょっと盛り上がった微高地となっているからでしょうか。この辺りにあったとすれば、ここに城を築きそうですね。

▲専精寺
その専精寺の本堂です。木造で歴史を感じさせるイイ感じの建物です。寺キチさんは、全国に無数にあるこの手の建物を追いかけ回すんでしょうね。城キチも似たようなもんですがwww

▲城址碑と説明板
本堂の左側(南)の駐車場には城址碑と説明板、平塚為広の辞世の句がありました。これ見落としそうになったのですが、何か引っ掛かるものを感じて引き返して見つけました。城キチの勘というか、そんなものが自分にはあるなと感じた訪城でした。
◆歴史◆
鎌倉時代に長屋氏が築いたとする説があります。
鎌倉時代から戦国時代にかけて、長屋氏が本拠としていたとする説があります。不破郡の長屋氏は、鎌倉時代に相模から移って来た長屋行景に始まります。年代は承久の乱(1221年)よりも後です。承久の乱は、長屋行景の親の代の出来事でした。
天文年間(1532~55年の間)初期、長屋景興は相羽城へ移りました。
長屋景興が斎藤道三に攻め滅ぼされたのが1547年なので、それ以前の事となります。この年代に不破氏も府中から西保へと北に移動しています。これは美濃守護・土岐氏と守護代・斎藤氏の争いと関係あると思います。
1541年に斎藤利政(道三)が土岐頼満(土岐頼芸の弟)を毒殺したのが全面戦争の始まりです。翌年には土岐頼芸が尾張に追放されて、斎藤氏による美濃乗っ取りが達成されました。しかし、尾張の織田信秀と越前の朝倉孝景の援助を得た土岐頼芸が反撃に転じました。土岐頼芸は揖斐北方城に復帰し、土岐頼純は革手城に入って斎藤氏と戦いました。長屋氏は土岐方として戦っていたので、相羽への移転はこの頃だったのかもしれません。
しかし、1547年に稲葉山城に攻め込んだ織田信秀が斎藤利政に大敗を喫しました。また、同年11月には革手城の土岐頼純が没しました。この情勢を不利と見たのか、織田信秀は斎藤利政と和睦してしまいました。これが土岐頼芸には致命的な出来事でした。織田軍の援護が無くなったことで、斎藤利政は土岐氏の配下を各個撃破して行きました。長屋氏が滅ぼされたのはこの頃の事です。
1600年、平塚為広が城主となりました。
垂井城としてちゃんと歴史に登場するのはこの時からです。長屋氏は「垂井を本拠としていた」だけなので、垂井城があったのかすらわかりません。ただし、垂井城の正確な位置は特定されていませんが・・・
平塚為広は前半生がよくわかっていませんが、豊臣秀吉の馬廻衆を務めていました。力持ちで薙刀の名手として知られ、小牧・長久手の戦いや小田原征伐で武功を挙げたそうです。こうした長年の忠勤に報いる形で、1600年に垂井1万2千石が与えられました。
関ヶ原の戦いの後、廃城となりました。
平塚為広は無名ですが、豊臣家中では信頼されていたようです。大谷吉継と親交があり、徳川家康と一戦交えんとする石田三成を一緒に諌めたりしています。しかし、結局は石田三成が挙兵したため、西軍として関ヶ原の戦いに臨みました。
関ヶ原では東軍に寝返ると噂されていた小早川秀秋の前に大谷吉継と共に陣取りました。そして予想通り小早川軍が寝返って大谷陣へ攻め込みましたが、何度か押し返しています。しかし、脇坂秀治らも東軍に寝返ると持ち堪えるられず、ついに討ち取られてしまいました。平塚為広は討ち取った首と辞世の句を大谷吉継に送っています。関ヶ原の戦いの後、垂井城は廃城となりました。
ちなみに、平塚為広の辞世の句は
名のために 棄つる命は惜しからじ 終にとまらぬ 浮世と思へば
大谷吉継の辞世の句は
契りあれば 六つのちまたに待てしばし 遅れ先立つ ことはありども
です。
大谷吉継の句は平塚為広への返句となっています。2人の友情が伝わってきていいですね!
所在地:岐阜県不破郡垂井町垂井
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