2014/09/23
根古地城/岐阜県養老町
根古地城は国道沿いの天照寺の場所にあったとされます。訪問日は2013年7月27日です。

▲天照寺
さすがにここは迷いません。だって国道沿いですからwでも、遺構が無いからって正面からお寺を撮るだけでは面白くありません。

▲周りを田んぼで囲まれている
ちゃんと裏に回って撮りました。田んぼに浮かぶ島のような感じです。国道が当時から道だったとしても、大軍で押し寄せるのは無理そうですね!
◆歴史◆
築城時期は不明。徳永昌重の居城だったと伝わります。
徳永氏がこの地域に居たのは1600年にあった関ヶ原の戦いの後からです。徳永昌重の父・徳永寿昌が高須城や駒野城を攻め落とした功によります。・・・この両城の落とし方はあまり感心できませんがwそのため、築城時期もおそらくその頃と推測します。
1612年、徳永昌重は家督を継いで高須藩主となりました。遅くともこの時に高須陣屋に居城を移したことでしょう。
1614年と1615年にあった大坂の陣で活躍し、5万700石まで加増されたのですが・・・
1628年、大坂城の普請遅延の責任を取らされて改易されてしまいました。
高須藩は廃藩となり、笠松代官の岡田将監が支配しました。この岡田氏は土岐一族ではなく尾張源氏の末裔です。大葉城の歴史を調べた時に引っ掛かりましたw
1640年、小笠原貞信が下総関宿から移り、高須藩が再び立藩しました。
1657年、天照寺が創建されました。
天照寺は浄土宗のお寺です。お寺には「宝暦治水薩摩義士ゆかりの地」の看板が掲げられています。なぜ薩摩が?という疑問が沸いたので調べました。以下、かなりザックリ書きます。
宝暦治水とは、江戸時代中期(1750年頃)に行われた美濃の治水工事です。美濃では木曽川、長良川、揖斐川が複雑に絡んで水害が多発していました。しかし、小藩が乱立する地域だったため、治水工事は全く手付かずでした。それまでにも江戸幕府には治水工事の請願が何度もされていたようですが・・・
ようやく重い腰を上げた江戸幕府は、薩摩藩に治水工事を申しつけました。薩摩藩は多額の借金を抱えており、挙兵して拒否すべきという意見もあったそうです。結局のところは工事を請け負い、水害は激減したそうです。そのため、今でも岐阜県と鹿児島県はとても仲良しなのだとか。
ただ、この工事では幕府が嫌がらせとも思える数々の仕打ちがなされました。人足は未経験の現地人を雇えだとか、ご飯や工具などは割高で買わされるなどなど。更には幕府から派遣された役人の設計ミスや度重なる設計変更で、何度も決壊したりなど。憤怒から数多くの薩摩藩士が自害しましたが、幕府には病死と届けていました。そして、工事が完了した後、総奉行の平田靱負も自害しています。
所在地:岐阜県養老郡養老町根古地
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