2022/02/15
造海城/千葉県富津市
造海城は、山全体に築かれた大規模なお城でした。訪問日は2022年1月22日です。

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登城口は複数あるようですが、私は南の燈籠坂大師から登りました。
往時の大手口がここで、いきなり岩盤をくり抜いた切通しが見られます。
そこから細尾根上を進むと、岩をくり抜いた門跡が数箇所あります。
4の所にも岩の門跡があり、そこから4方向に道が分岐します。
倒木もありますが、自己責任なら見学してよいと札が立っています。
足場の悪い箇所もありますので、気を付けて見学して下さい。

1 登城口
地図上に破線の道が他にもありますが、ちゃんとした道はここだけです。
車は国道の東京側のトンネル出口付近に停められます。
鳥居のある細道に入り右折、手掘りのトンネルを出た所がココです。

2 切通し(大手門跡)
燈籠坂大師の建物の裏に、岩盤をくり抜いた所があります。
ここが造海城の大手門と伝わります。
里見式、激しいです

この石段を登ったら左へ進みます。
その角に、城内は荒れているから自己責任でと立て札が。
木が倒れると立入禁止にする昨今ですが、私はこっちの方がイイです。
倒木を乗り越えてこその城キチ・・・でもないですけど


3 切通し
燈籠坂大師の上からは、細尾根をひたすら進みます。
細尾根というほどの細さを感じさせませんが、屏風みたいな地形です。
そのそこかしこで、わざわざ岩盤をくり抜いた箇所があります。
いずれも門の跡だったのではないかと思います。
屏風のような尾根から城山本体に入っても、掘り下げた道があります。

4 門跡
上の箇所を過ぎた所で、再び石の門跡があります。
道はここから4方向に分岐します。

城内を散策していると、何度もココを通ります。
かなり重要なポイントだと思い、図を描いてみました。
これ、たまり場の無い枡形虎口ですネ!
脇の曲輪は藪に埋もれていますが、切岸は垂直です。

5 一番広い曲輪
山頂への道を進むと、かなり広い曲輪に出ます。
ここが主郭らしいです。
細尾根を進み、岩盤をくり抜くような山にこんな広い場所が!
ここを平らにするための土木量、ハンパ無かったでしょう。

6 城山山頂にある曲輪
主郭からさらに細尾根を過ぎた所が、城山の山頂です。
ここには山頂を示す物が見当たらなかった気がします。
代わりに脚立ならあったココが二郭です。
さらに奥へ進もうとしましたが、断崖絶壁で手前にロープが。
あれ?地図では道が描かれているのに・・・?
そう思いながら、この時はUターンしました。

7 北西に伸びる細尾根
4の所まで戻り、今度は海側の細尾根へ。
こちらはひたすら細尾根上を進みます。

8 細尾根の上から見た曲輪
細尾根からは、左下に細長い曲輪が見えます。

9 門跡
細尾根の先端まで進むと、スパッと断ち切られた岩が。
ここでも里見流全開です(`・ω・´)
この裏側は崩れていて、大きな岩がザックリ落ちています。
超歩きにくいので、気を付けて下さい。

10 細尾根の下にある曲輪
上の虎口で進行方向は真逆になり、城山方向になります。
細尾根の下の曲輪は、細尾根側がこんな感じになっています。
もしかして、尾根1本丸ごとこんな加工をしたのでしょうか。
そりゃ、尾根も細くなりますw
城山本体までこんな感じの曲輪が連なり、一番奥に井戸跡があります。

11 横堀
三たび4の所に戻り、今度は一番気になっていた横堀へ。
4から真正面に見えるこの横堀は、造海城の象徴的な光景です。
岩があろうが何だろうが進みたい方へ進む里見式、凄いです


12 水堀
横堀から先は、城山西側斜面の腰曲輪群があります。
あまりに沢山あり、全部回るとそれだけで日が暮れそうな程です。
夢中で歩いたので気付きませんでしたが、GPSの軌跡は9kmありました。
こちらも岩をくり抜いた門跡がいくつもあります。
奥の曲輪では、唯一水のたまった水堀を見ることが出来ます。
岩盤をくり抜いているので、水が逃げないですね。
この脇の斜面は絶壁で、とても登ることは出来そうにありません。

13 門跡
岩をくり抜いた門跡は、こちら側には2箇所ありました。

14 主郭の西側下にある曲輪
こちら側の腰曲輪も、斜面をザックリ削った険しいものです。
そんな中で一番広かったのがココです。
曲輪が沢山ありますが、名前があるのかどうかはわからず。

15 砲台跡
行ける所まで行こう!で辿り着いた先端は、少し様子が違いました。
それまで見られなかった、石を組んだ遺構がありました。
これは、江戸時代末期に築かれた砲台の跡です。
城内ではココと南の三郭に設置されていました。

16 砲台の上の尾根
また戻るとあとは三郭方向だけになります。
行けるハズの二郭から先へまだ行けていません。
どこかに道があるのではないかと思いましたが・・・
何となく、砲台跡背後のココが登れそうに見えて来ました(`・ω・´)
腕のいい眼科があったら紹介して下さい


17 尾根沿いの道
傾斜が緩かったので登ってみると、すぐにこんな光景が。
これ、道ですよねヾ(*´∀`*)ノ

18 東側の尾根を下る道
そのまま下ると、北側の尾根を下る道に出ました。
途中、ちょっと怖い所もありましたけど


19 東尾根の切岸
尾根には曲輪が連なっています。
段曲輪の中では、たぶんここが一番大きいかもしれません。
切岸の高さは10メートル位あります。

20 19の上にある曲輪
19の所までは斜面沿いの細道を来ました。
岩盤ぶち抜きの絶壁でしたが、何となく登る道が見え・・・
上がった所がココです。
ちゃんと平らにされた草原でした

山頂方向側には、ちゃんとした虎口もありました。

21 堀切
そのまま進むと、またしても岩をブチ抜いた堀切様に遭遇。
あ、、、貴女に遭いたかったんです

・・・なんて言ってません。
言っても良かったんですがw
上からは辿り着けなかったので、ラッキーでした。
このすぐ先で上がる道があり、脚立のある二郭に出ました。
二郭の上からだと、下りる道は草に隠れて見えませんでした


22 西側へ行く道
最後に、砲台跡のある三郭を目指します。
再び4の門跡まで戻り、今度はこっちへ行きます。
何となく「こっちにも道がある?」と恐る恐る進みました。

23 西側最上段の曲輪にある土塁
岩を回り込んで反対側に出ると、土塁のある曲輪に出ます。
そこから細尾根上を進み、再び土塁のある広い曲輪に出ます。
北西側の腰曲輪にもありましたが、ここの土塁は二回り大きいです^^

24 虎口
外周を見ていると、内側に1本真っすぐに凹んでいる箇所があります。
絵づらは堀切に見えますが、一段高い曲輪の真ん中にある下り坂です。
この外側にも小さな曲輪があります。

25 堀切
虎口を出て左方向に、この堀切があります。
これは斜めの尾根をブッた斬っている堀切です。
外側を覗いたら断崖でした。

26 虎口
土塁は東側にあり、西側は下の方に曲輪が見えます。
数メートルありどう下りるのかと思ったら、北側に虎口がありました。
ここから斜面沿いの細道を下ります。

27 虎口
すると、またしても岩盤をくり抜いた虎口が現れます。
この虎口は細い尾根をブッた斬ってるので、堀切とも言えそうです。
中の曲輪が掘り下げて出来たのなら、尾根は削り残しになりますが。
堀切と虎口の違いがだんだんわからなくなってきます。

28 西側の2段目の曲輪
上の虎口の中は、とても広い曲輪です。
東側は切岸で、高さは数メートルあります。

29 上から見た3段目の曲輪
西側には、10メートル程下に広い曲輪が見えます。
また先程の北側の斜面沿いを進むのかと思いましたが・・・
そちらは崩れて道が無くなっていました。
そうなると城キチのセオリーに従い、下りやすそうな所を下りました。

30 砲台
この一番下が三郭で、左奥にこんもりが4つか5つ並んでいます。
これが幕末に設置された砲台の跡です。
北西側の腰曲輪先端で見たのとは異なり、石組みはありません。
今は木々に遮られて海が見えませんが、当時はどうだったのでしょう?
敵船から砲台が見えてもいけませんし、適当に木は残したでしょうか。
◆歴史◆
真里谷信興により築かれたとされます
真里谷信興は、甲斐から上総に移り住んだ武田信長の孫です。
武田信長は古河公方に従い、扇谷上杉家から上総を奪った人物です。
孫の真里谷信興から、居城のある真里谷姓を名乗るようになりました。
「築城時期は1461年で、里見家の北上に備えた」とされます。
当時の里見家は初代・里見義実が当主だった頃ですが・・・
色々と不明な事が多く、次第にわかってくるのが1480年代以降です。
里見義実はその頃迄に安房を平定し、稲村城を拠点としていました。
後北条家も、北条早雲が小田原城を奪ったのが1495年頃です。
1460年代だと、関東では享徳の乱(1455~83年)の真っ最中でした。
上総の守護は扇谷上杉家で、上総武田家は古河公方に従っていました。
そのため、この時期に上総武田家が戦った相手は扇谷上杉家です。
里見家も古河公方に従い、扇谷上杉家の領地を切り取っていました。
ただ、すぐ南の金谷城を里見成義が奪ったという記録があるようで・・・
同じ古河公方陣営ながら、境を争っていたのかもしれません。
1533年、真里谷信隆が里見義堯を匿いました
里見家で稲村の変が起き、里見義豊が叔父の里見実堯を討ちました。
後北条家の備えていたはずの里見実堯が、後北条家に近づいたためです。
その実力を恐れた里見義豊が、先手を打ったと考えられています。
里見実堯の子・里見義堯は、すぐ北の真里谷信隆に助けを求めました。
真里谷信隆は、造海城で里見義堯を匿ったとされます。
その後、北条氏康の支援を取り付けて逆襲に転じます。
そして、犬掛の戦で里見義豊を討ち取り、里見義堯が当主となりました。
しかし、まもなく里見義堯は後北条家と手を切ります。
1537年、里見家の城となりました
1534年、真里谷家の全盛期を築いた真里谷信清が没しました。
家督は長庶子の真里谷信隆が継ぐことに決まっていました。
しかし、小弓公方・足利義明が正室の子・真里谷信応を支援。
真里谷家中は真っ二つに割れ、家督を巡る争いが始まりました。
この戦いで、真里谷信隆は後北条家に支援を求めました。
造海城は子の真里谷信政が守り、後に真里谷信隆も合流したようです。
この内紛に里見義堯も介入し、造海城を攻めました。
ほんの数年前に助けてくれた恩人の城なのですが・・・
この籠城戦の際、真里谷信隆が開城の条件として和歌百首を要求。
里見義堯が要求に応えると、真里谷信隆は城を明け渡しました。
真里谷信隆は真如寺の仲介で真里谷信応と和議を結びました。
戦後、後北条家を頼って武蔵国金沢へ移り隠居しました。
里見義堯が誰を造海城に配置したのかが?ですが・・・
周辺の状況から、内房正木家の正木兵部大輔かもしれません。
正木兵部大輔は里見家臣ですが、一時期後北条家に従いました。
相模国内に後北条家から与えられた領地を持っていました。
1553年には後北条軍と連動して、すぐ南の金谷城を攻めています。
金谷城周辺は元々は内房正木家の領地ですが、当時は正木時忠の城でした。
正木時忠は別系統で、勝浦城を本拠とする外房正木氏です。
里見義堯は正木兵部大輔を味方に引き込むため、金谷城を与えますが・・・
これに正木時忠が猛反発し、後の離反を招いています。
1590年、廃城となりました
里見義康が、小田原征伐の最中に後北条軍が居なくなった小弓城を奪還。
また、鎌倉公方再興を目指し、鎌倉に禁制を発しました。
これは、保護していた小弓公方・足利義明の子・足利頼純のためでした。
しかし、これが豊臣秀吉が発した惣無事令に反するものとされました。
里見義康は下総と上総の領地を没収され、安房一国のみに減封されました。
この時に造海城は廃城となりました。
1811年、城跡に砲台が設置されました
1792年、ロシアのラスクマンが根室に来航し、通商を要求しました。
当時の老中・松平定信は、長崎でなら交渉に応じると回答。
ラスクマンは長崎へ向かわず、函館に奇港してそのまま帰りました。
松平定信は相次ぐ外国船の接近に危機感を抱き、江戸湾警備を計画。
しかし、翌年失脚すると、江戸湾警備は白紙に戻されました。
その後、1810年になり松平定信に房総の海岸警備が命じられます。
松平定信は造海城三の丸跡に砲台、内陸部に竹ヶ岡陣屋を築きました。
麓の海岸には、竹ヶ岡台場も築いています。
この海防のため、富津周辺が松平定信の白河藩領となっています。
竹ヶ岡砲台と竹ヶ岡陣屋は、1858年に廃止されています。
所在地:千葉県富津市竹岡 GPSログダウンロードページ
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コメント
無題
虎口や切り通しなど見どころは満載のようですので行ってみたいんですけどね…(^^;;
2022/02/16 04:24 by 御城学 URL 編集
Re:無題
危険だと感じるのは、北西の砲台跡から登る道じゃない尾根くらいかと。倒木はありますが単独なので、くぐっておしまいです。諸兄が言う程危険ではありませんよ(^^)
2022/02/16 06:42 by なぽ URL 編集