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駒野城/岐阜県海津市

駒野城跡は城山小学校となっています。
訪問日は2013年7月27日です。

駒野城/城山小学校正門
▲城山小学校の正門

事前の予習で小学校になっているのは知っていました。土塁なんかが校内にあるらしいです。しかし、大きく開け放たれた正門からは見当たらず。当直の方に頼めば見せてくれるのでしょうが・・・いかつい門に圧倒され、そのまま次に行った私はチキン野郎ですw


◆歴史◆

正暦年間(990~994年の間)に瀬戸道明寺が城を築いた伝承があります。

瀬戸道明寺のことはさっぱり分かりませんが・・・海津市役所のホームページにある駒野城の項で「知行1万8千貫」と書かれています。これがどれ位の金額に相当するのか調べてみたのですが、わかりません。きっとたいそうな身分の人物だったのでしょうあせる

鎌倉時代には土岐氏の家臣・伊藤氏が置かれました。

土岐氏が城として整備したのが承久年間(1207~10年の間)とされています。承久の乱があった頃ですね!・・・元号そのまんまです。まぁ全国的に政情が不安定な時期なので、それらしくはありますがw

1547年、高木彦左衛門が城主となります。

高木彦左衛門は斎藤利政(道三)の家臣です。斎藤利政が美濃守護・土岐頼芸を尾張に追放したのが1542年。それから5年経ってもまだ完全には美濃を掌握できていなかったんですね。この年、織田信秀の支援を得た土岐頼芸が、稲葉山城へ大規模な攻撃を仕掛けています。なので、斎藤方の高木氏が土岐方の駒野城を攻めたのはこの戦いでの事と思います。

1590年、高木氏が没落しました。

高木貞利は斎藤氏滅亡後は織田信長に仕え、今尾城を居城としていました。しかし、織田信長没後の争いで今尾城を失い、再び駒野城を本拠としました。この時に従っていたのは織田信雄です。織田信雄は豊臣秀吉に滅ぼされることもなく生き延びていましたが・・・小田原の北条氏が滅びた後、駿河への移封を命じられました。当時の織田信雄の所領は尾張・伊勢・美濃で100万石程。移封先は関東へ移る徳川家康の領地だった所で、石高も変わらなかったのですが・・・織田信雄はこの移封を拒否ったため改易され、高木氏もとばっちりを喰らいました。

1600年、池田秀氏が篭城しました。

時は関ヶ原の戦いが終わってからですが・・・この辺で池田姓だと池田恒興の親戚かと思いがちですが、全く血縁はありません。もともとは近江六角氏の家臣で、当時は伊予国大洲2万石の領主でした。関ヶ原の戦いでは西軍につき、戦いが終わってなお、駒野城に篭城して抵抗を続けました。・・・ということは、ここは無人だったということでしょうか?しかし、東軍の徳永寿昌に攻められ降伏し、以後廃城となりました。


所在地:岐阜県海津市南濃町駒野

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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