2014/09/17
今尾城/岐阜県海津市
今尾城跡は今尾小学校となっています。訪問日は2013年7月27日です。

▲今尾小学校正門
事前の予習で城跡が小学校になっていることを知りました。大きなランドマークなので道は調べやすいのですが・・・あんまりカメラ持ってウロウロ出来ないな、なんて不安を抱えての訪城でした。

▲堀跡?
しかし!
いざ訪問してみると、夏休みで人気(ひとけw)も無く、正門は開け放たれています。その正門前には深く掘られたような水路が。これは堀跡に違いない!ということで、迷うことなく撮りました。・・・多分ですが、堀跡だと思います。

▲土塁
さらに!
開け放たれた正門からすぐの所に細長い土盛り!そしてその手前には何やら図入りの説明板!・・・まぁ、公の土地だしいっか!てことで撮らせて頂きました。

▲移築門(西願寺)
移築門が近所の西願寺にあるのですが・・・この辺って細い道がうねうねと曲がりまくっています。おかげで随分と迷いましたが、ようやく見付けました。あまりいかつい感じでないのは、陣屋になってからの門だからでしょうか?この門がいつ築かれたのかは知りませんが

◆歴史◆
文明年間(1469~86年の間)、中島重長により築かれました。
中島重長については斎藤氏の家臣であったということ以外はわかりませんでした。3代後の中島重行の時に織田信長により滅ぼされました。
1567年、高木貞久が城主となります。
駒野城主・高木氏も斎藤氏の家臣でしたが、織田信長に仕えるようになりました。もしかしたら織田方に寝返って中島氏と一戦交えたのかもしれません。
1583年頃、森寺忠勝が城番となりました。
この頃は賤ヶ岳の戦いが終わり、池田恒興が大垣城主となりました。森寺氏は池田氏の家老であったため、城主が交代するとすればこのタイミングだと思います。高木氏が仕えていた織田信孝が賤ヶ岳の戦いに敗れて切腹したことと関係ありそうです。今尾城を居城としていた高木貞利は、駒野城(元々の高木氏の本拠)へ移っています。以後、高木氏は織田信雄に仕えています。
1584年、吉村氏吉が城主となりました。
吉村氏吉は織田信雄の家臣で、小牧・長久手の戦功として今尾城一帯が与えられました。もともと海津町一帯(駒野城の南側)を領有しており、領地が北に拡がった格好です。
1587年、市橋長勝が城主となりました。
この年の城主交代は九州征伐の戦功と思われます。市橋長勝は豊臣秀吉の家臣でしたので。豊臣秀吉没後は徳川家康に仕え、1599年に1万石、1600年には更に1万石の加増を受けています。
1608年、廃城となり、今尾陣屋が築かれました。
市橋長勝が伯耆国矢橋藩へ移り、竹腰正信が今尾の領主となりました。竹腰正信は初代尾張藩主・徳川義直の異父兄です。1612年に平岩親吉が後継ぎなく没すると、22歳の若さで尾張藩附家老となりました。今尾城は廃城となり陣屋が置かれ、今尾藩の藩庁として明治まで続きました。
所在地:岐阜県海津市平田町今尾
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