2014/09/23
西高木家陣屋/岐阜県大垣市
西高木家陣屋は関ヶ原ICから南に下った所にあります。訪問日は2013年7月27日です。
ここは2013年の夏休みで最初に訪問した城跡です!明け方に雷雨があり、近くの神社で雨宿りしたのをよく覚えています。さて、大垣市言うともっと東のイメージがありますが、ここは関ヶ原のすぐ隣町です。Wikipediaによると養老郡上石津町が大垣市と合併したそうで、飛び地となっています

▲石垣
関ヶ原ICから国道365号を南下し、上原交差点を右折します。そして橋を渡って河岸の断崖を登った先に西高木陣屋があります。
最初に道の正面に見えるのがこの石垣です。現代モノとは違う、昔ながらの石垣はやっぱり違いますね!丁度カーブの真正面にあるので、壁のように見えて圧倒されます。

▲埋み門の石垣
そのカーブの右側(北側)にも石垣があります。これが埋み門跡の石垣で、旧状をよく留めています。

▲陣屋門
坂を登り切った所には資料館があり、その奥まった所にこの門があります。位置的には最初の写真の石垣の真上にあります。西高木陣屋の建物としては唯一現存する建物ですが、元々は別の場所にあったそうです。門の裏側は入れなさそうだったので、見ていません。
上石津郷土資料館
・所在地 :岐阜県大垣市上石津町宮237-1
・開館時間:9:30~17:00
・休館日 :毎週火曜日。火曜日が祝日の場合はその翌日。
祝日の翌日(詳しくはリンク先参照)。
年末年始(12月29日~1月3日)
・入館料 :100円
◆歴史◆
1600年、関一政により多羅城が築かれました。
関一政は関盛信の次男です。関ヶ原の戦いではじめは西軍でしたが、東軍に寝返って多羅の地を与えられました。この時に築いたのが多羅城で、西高木陣屋の前身となります。
素朴な疑問ですが、その前の領主は誰だったのでしょう?西高木陣屋でググると、大抵高木氏の事がメインで書かれています。その高木氏は1590年の織田信雄改易でとばっちりを喰らい、甲斐で蟄居となりました。
高木氏が本拠としていた駒野城は、関ヶ原の戦いまで高木盛兼が城主のままで居ます。高木氏には幾通りかの家系があり、織田信雄派だけが改易されたのかもしれませんね。
1601年、高木貞利が城主となります。
関一政が関氏の故地・伊勢亀山へ移り、高木貞利ら兄弟に石津郡3000石が与えられました。関ヶ原の戦いでは駒野城の高木盛兼は西軍に味方しましたが、高木貞利は東軍でした。やはり同族の別系統と考えるのが自然ですね。
高木氏は同地で三家に別れてそれぞれ陣屋を構えました。その配置により北高木家、西高木家、東高木家として区別されます。西高木家はその後加増を受け、大名格として三家交代での参勤交代を行うようになりました。(交代寄合と呼ぶのだそうです)
じゃあ、北と東の高木家はどこに陣屋を構えたの?と気になりました。当時は「多羅城跡」という認識で訪ね、見てきたのが西高木家の陣屋だけだったのです。北高木家は主に埋め門の北、東高木家は坂を下った東側に陣屋を構えました。それぞれ残っている遺構は、北高木家が石垣、その隣に東高木家の土蔵があります。・・・これらは見てないので、正確な位置等は別のサイトを参照下さい

所在地:岐阜県大垣市上石津町
岐阜県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント