2014/09/07
阿千葉城/岐阜県郡上市
阿千葉城跡は国道沿いの峰上にありました。訪問日は2012年8月8日です。

▲図
ココも当時のザックリ地図だけで訪ねて見事に迷子になった所です。地図を見ていると城跡の脇に道があり、そこから川沿いの山に登れそうに感じました。しかし、現地に行ってみると、そこは採石場。地図に道は描かれてはいますが、そこから中に入って行くのが躊躇される雰囲気です。そんな道端にあったのが上の図です。これを見て、道間違えてるかも?と思い国道まで引き返しました。

▲宝暦義民傘連判状の碑
さて、先ほどの図でポイントとなるのが長良川に流れ込む小さな川の位置です。国道を北から南下(図では左→右)してきて川を渡り左折すると、先程の採石場に辿り着きます。しかし、図では城跡が川の手前にありました。それでピンと来ました。国道の川沿いまで戻ってきた時に最初に見えたのが上の石碑です。これが登城口の目印となります。

▲説明板
この石碑のすぐ近くには綺麗な説明板があります。近づいて見ると阿千葉城について書かれており、ここが登城口だと確信しましたヽ(´∀`)ノ

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説明板には等高線付きの縄張図が!図では道は描かれていませんが、山へと続く道があるので登ってみました。

▲虎口
すると、先程の説明板から登ること7分で虎口らしき所に出ました。縄張図によると本丸なので、ここは搦め手口ということでしょうか。

▲城址標柱
どう見ても人の手が加わった地形。畑とかでもないのですが、こいつがあると不安が一気に消し飛びます


▲空堀
城内にはこんな感じの溝も。堀切なのか、空堀なのか判然としませんが・・・当時そういう目で遺構を見てなかったので


▲石積み
さらに石積みも。後世に積んだものなのかちょっと???ですが一応w

▲本丸
峰上には広場がありました。さすがは居住空間だっただけあります。ちょっと迷っただけに、ヤッタゼ!という感じです^^
さて、これでやっと2012年夏休みシリーズが終わりましたヽ(´∀`)ノキリが良いので、書いてないお城があといくつ残ってるのか数えてみました。そしたら・・・あと・・・620箇所・・・・・・・・丸3年は掛かるかもwwwwww
◆歴史◆
1222年、承久の乱の功として、東胤行に郡上郡山田庄が与えられました。
東胤行は歴オタならピンと来るかもですが、千葉一族です。下総国香取郡東荘33郷の領主でしたが、山田庄の地頭として移って来ました。東氏は剣郷に阿千葉城を築き居城としたのですが・・・城を築いたのが東胤行なのか、その次男・行氏なのかは定かではありません。
1312年、東氏村は居城を篠脇城に移しました。
これは当時境を接していた鷲見氏と拠点が近過ぎたためだそうです。東氏と鷲見氏はライバル関係だったそうで、1500年代まで小競り合いを繰り返しました。阿千葉城でググルとここで廃城になったというサイトが多かったのですが・・・
1541年、廃城になりました。
東氏のライバル・鷲見氏を調べると、どこでも阿千葉城で滅びたと書かれていました。城だけでググッてると、こういう単純な罠に引っ掛かったりします。
この時の城主は鷲見貞保です。鷲見氏は美濃守護・土岐氏の有力な家臣でしたが・・・守護代・斎藤氏の台頭とともに没落し、いつしか東氏の配下となっていました。そんな鷲見貞保に謀反の疑いがかけられ、東常慶により攻め滅ぼされてしまいました。
所在地:岐阜県郡上市大和町剣
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