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荻町城/岐阜県白川村

荻町城跡は白川郷を見渡す丘の上にありました。
訪問日は2012年8月8日です。

荻町城/①白川郷を見渡す
▲白川郷を見渡す

荻町城跡は白川郷を一望できる丘の上にありました。地図にも城跡として記載されていますが、遺構らしき物は見つけられませんでした。ここからは合掌造りの家が点在する様子が手に取るように見渡せます。

荻町城/②展望台にあるお店
▲天守閣展望台って・・・w

現地を走っていると、城跡というよりも展望台であることが強調されています。しつこい位に看板があるので、迷うことは無いと思います。白川郷はどこへ行っても駐車場が有料なので、あんまり興味無ければここからで十分かも。


◆歴史◆

白川郷はいつ頃成立したのか特定出来ていないそうで・・・奈良時代にお坊さんが来たとか、平家の落ち武者が隠れ住んだという伝承がある位です。確かな記録が残されているのが鎌倉時代で、浄土真宗の善俊が布教しています。

寛正年間(1461~66年の間)に築かれたと考えられます。

内ヶ島氏が白川郷にやって来ると、浄土真宗・正蓮寺と小競り合いを繰り返しました。荻町城は白川郷を見渡す丘の上にあり、この頃に内ヶ島氏により築かれたと思われます。

1476年、内ヶ島氏は正蓮寺を焼き討ちしました。しかし、蓮如上人の仲介で両者は和解し、以後は共存するようになりました。

1576~78年にかけて、内ヶ島氏は上杉・姉小路連合軍を撃退しています。白川郷は農耕に向かない土地のため、あまり侵略を受けなかったようです。これ以外に戦はあまりありませんでした。

1580年頃から、内ヶ島氏は織田信長の配下・佐々成政に近づきました。同じ頃に姉小路自綱も佐々成政に近づきましたが、思惑はそれぞれ異なっていました。内ヶ島氏はこの頃、照蓮寺とは不仲だったようで、牽制するのが目的だったようです。

1585年、内ヶ島氏は金森長近に降伏しました。この時内ヶ島氏理は姉小路自綱とともに越中に出陣していました。その間に金森長近が越前・大野城から山を越えて白川郷に侵攻したためです。内ヶ島氏は金森長近と和睦し、所領を安堵されました。

1586年1月18日、主家・内ヶ島氏が滅びました。

天正地震により帰雲山が崩落し、主である内ヶ島氏が城ごと土砂崩れに巻き込まれました。荻町城主だった山下氏勝は徳川家康に仕官しました。

山下氏勝は小田原の役では徳川軍の先鋒を務めるなど活躍。妻の姉が徳川家康の9男・徳川義直を生んだことが縁で、その傅役となりました。徳川義直は後に尾張藩主となり、山下氏勝の進言を容れて居城を名古屋城に移しました。


所在地:岐阜県大野郡白川村荻町

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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