2014/09/06
帰雲城/岐阜県白川村
帰雲城はその位置が特定されていません。訪問日は2012年8月8日です。

▲入口
帰雲城は1585年の大地震で土砂崩れにより埋没してしまいました。そのため、正確な位置は分からないままになっています。

▲城址碑
そのため推定地に城址碑やら説明板、供養塔などがあります。土砂崩れは金森長近との和睦を祝う宴の最中に発生したそうです。城と城下町が丸ごと埋没してしまい、一瞬にして内ヶ島氏は滅びました。

▲この山?
帰雲城跡から東側には派手に崩れた山が見えます。城ごと埋もれる土砂崩れが起きてから400年以上経ってますが・・・この山でしょうか?

城跡にはこんなのやら「武士の面影が見えます」といった板もあります。供養碑の碑文によると、ここで何やら気配を感じたようなことが書かれていました。う~ん、オカルトっぽいですな・・・

で、何か見えちゃった人居たらゴメンナサイwww
◆歴史◆
帰雲城は白川郷を支配する内ヶ島氏の居城でした。しかし、白川郷自体がいつから成立したのかは特定出来ていないそうで・・・奈良時代にお坊さんが来たとか、平家の落ち武者が隠れ住んだという伝承がある位です。確かな記録が残されているのが鎌倉時代で、浄土真宗の善俊が布教しています。
寛正年間(1461~66年の間)に内ヶ島氏により築かれました。
帰雲城は内ヶ島氏により築かれ、代々その居城となりました。信濃から来た説や武蔵から来た説などがあり、出自は分かっていません。内ヶ島氏は浄土真宗と激しく対立し、1476年には正蓮寺を焼き討ちしています。しかし、蓮如上人の仲介で和解し、以後は共存するようになりました。1501年、内ヶ島為氏は白川郷に照蓮寺を建立することによりお寺を再興しています。
1576~78年にかけて、上杉・姉小路連合軍を撃退しています。白川郷は農耕に向かない土地のため、あまり侵略を受けなかったようです。戦国時代でも戦はあまりありませんでした。
1580年頃から、内ヶ島氏は織田信長の配下・佐々成政に近づきました。同じ頃に姉小路自綱も佐々成政に近づきましたが、思惑はそれぞれ異なっていました。内ヶ島氏はこの頃、照蓮寺とは不仲だったようで、牽制するのが目的だったようです。
1585年、内ヶ島氏は金森長近に降伏しました。この時内ヶ島氏理は姉小路自綱とともに越中に出陣していました。その間に金森長近が越前・大野城から山を越えて白川郷に侵攻したためです。内ヶ島氏は金森長近と和睦し、所領を安堵されました。
1586年1月18日、帰雲山が崩落して城下町ごと埋没しました。
天正地震により帰雲山が崩落し、城下町ごと土砂に呑み込まれてしまいました。この時、金森長近との戦が終わって宴を催していたそうで・・・一族・家臣ともども滅びてしまいました。
所在地:岐阜県大野郡白川村保木脇
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