2022/02/12
山之城/千葉県鴨川市
山之城は、里見家重臣・正木氏初期の居城です。訪問日は2022年1月15日です。

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山之城への登城路は、主に2通りが知られます。
1つは、西側から比高があまり無い林道を通るルート。
もう1つは、東の浅間神社から登って来るルートです。
前回(2015年)は東から、今回(2022年)は西から登城しました。
東からの登城は、比高もあり道も険しいのでお勧め出来ません。
西からの林道は、入口にチェーンが張られているので徒歩となります。
両ルートは、城の最南端の切岸で合流します。

1 林道入口
今回はこちらから訪ねました。
城跡の西側に南北に白セメントの道があり、そこから林道が出ています。
はじめは北側から白セメント道を走りましたが・・・
坂道で全面が凍結している箇所があり、南側から回り込んで来ました。
地図にはその箇所に×印を入れておきました。
ほんの10mほどですが、凍っていたら避けた方が後悔しません。
林道の入口にスペースがあり、車を停めておけます。
この先チェーンが張られているので、ここから徒歩で攻めます。

2 登城口付近
林道を700m程歩くと、カーブミラー脇に石垣のあるカーブがあります。
ここが登城口となります。

3 登城口にある石垣
石垣は、南側が櫓台のようになっています。
何の石垣かは?ですが、年代的にはお城のものではあり得ません。
場所的に、嶺岡浅間神社は元々ここにあったのでしょうか?

4 登城口
林道から城跡へは、櫓台状石垣の南側からアクセス出来ます。
この道の入口に「←白滝山嶺岡浅間コース→」の白い案内があります。
ここで「←」の道へ進みます。

5 城跡への入口
石垣脇の坂道を登り切って間もなく、土の壁が正面を遮ります。
お察しの通り、ここが城跡最南端の切岸です。
遠い昔の記憶では、確か左脇からすんなり城内に入れたハズでしたが・・・

5 城跡への入口(2015年撮影)
城跡に入る道は、記憶通り左脇にありました。
昔の写真を引っ張り出すと、かなりはっきりした道が写っています。
しかし、倒木で道は塞がれ、雑草で覆われて道が見えなくなっています。
事前にこの写真を見ていれば、これ位の草なら掻き分けたのですが


6 右の尾根
正面の切岸には、無理やり登ったであろう跡が生々しく残っています。
私も登ろうと試みましたが、ズルズルと重力に引っ張られるばかり。
城キチって、切岸を真っすぐ進みたがるんですよね・・・w
少し冷静になり、右側に緩い尾根があるのを思い出しました。
そちらへ進むと、2、30mで人の背丈ほどまで下がって来ていました。
こちらからなら、無駄足掻きをせずに登れます^^

7 堀切
尾根を登り切った所が、切岸の上です。
平らに馴らされており、城内に入ったと実感出来ます。
千葉の山城は、2019年の台風のせいで倒木が多いですね。
切岸の上からは、北へ細尾根状の土塁が続きます。
土塁の右脇には、幅数mの平坦地が並行しています。
そちらは曲輪のようですが、現状は倒木で埋め尽くされています。
土塁は一旦下り、右脇に台状の所があります。
一旦下って上がるというのは、そこが堀切だからです。
ただし、絵には出来ない程倒木で埋まっています。
左に迂回して右に戻る感じで進みました。

8 主郭
台状の上がった所が主郭です。
主郭とはいえ、たいして広くはありません。
城内では一番高い所で、物見台と思われます。

9 二郭
主郭の先も、左側に土塁、右側に倒木天国が続きます。
ここが二郭で、城内では一番広い曲輪です。

10 二郭
奥の方は倒木が少なく、広い空間であることが実感出来ます。

11 三郭
二郭から数m下に、横長い腰曲輪があります。
ここが三郭で、やはり内部は倒木が散乱しています。
手前側は歩けましたが、奥の方は歩けない程縦横に倒れています。

12 四郭
さらにその下に四郭があります。
幅は三郭より狭く、三日月形をしています。

13 かなり下に見える五郭
恒例で下の曲輪を見ましたが、かなり高低差があります。
同じような腰曲輪が続くだけなら、いつもなら打ち止めですが。。。
そこまで行けば、さらにその下にある遺構も見れるらしい!

14 五郭
ということで、下りて来ちゃいました。
写真の通り、幅は4、5m程しかありません。
これだけなら見には来ませんが・・・

15 四郭脇の古道
西側のすぐ脇に、横堀っぽいものが見えました。
早速下りて見ると、上にも下にも続いています。
曲輪に沿ってはいますが、ずっと城跡に沿う感じです。
これが、地図に描かれている破線の道です。

16 とうしろ台城
破線の道を下ると、すぐにまとまった平坦地が現れます。
ここからが「とうしろ台城」と呼ばれる遺構です。
来ちゃったからには、とことん見て回ります!

17 堀切
とうしろ台城は、1m前後の段差を連ねた構造をしています。
その一番山之城寄りに、この堀切があります。
堀切ではありますが、先程の古道でもあります。
この古道は、そのまま北側の集落にまでつながっています。
・・・地図の上ではw

18 虎口
低い段差を連ねた中で、1か所だけ虎口っぽい所があります。
この外側にも、低い段差を連ねた曲輪があります。

19 土塁
虎口の北側には、2m程高い広い曲輪があります。
ここがとうしろ台城の主郭のようです。
左側(南側)には、低い土塁があります。

20 段曲輪の段差
先端部には、小さな笹曲輪があります。
ここも段差で曲輪を区画しています。
◆歴史◆
正木氏初期の居城でした。
正木氏は三浦一族とされますが、その出自は不詳です。
以下のような色んな説があります。
①三浦時高の幼子が戦火を逃れて来た
②晩年安房に移り住んだ三浦高救の子孫
③北条早雲に滅ぼされた三浦義同またはその弟の子孫
④元々内房に居た三浦一族
などです。
どれも確証はありません。

三浦時高は、鎌倉公方・足利持氏に仕え相模国守護を務めました。
1438年、足利持氏が永享の乱を起こすと、幕府側につき鎌倉を占領。
主・足利持氏を自害に追い込みました。
後継ぎが無かったことから、扇谷上杉家から養子を迎えました。
1457年、幕府は古河公方に対抗し、新たに鎌倉公方を創設。
将軍・足利義政は異母兄・足利政知を関東へ送りました。
しかし、古河公方勢力の妨害に遭い、伊豆半島から先へ進めず。
困った側近の渋川義鏡は、扇谷上杉家らに反逆の疑いありと讒訴。
そのため1462年、三浦時高が身代わりとなって隠居しました。
この時に扇谷上杉家から迎えた養子・三浦高救が家督を継ぎました。
しかしその後、三浦時高に実子が生まれ、確執を生じます。
1486年、扇谷上杉定正は、関東のヒーロー・太田道灌を暗殺しました。
これに憤った三浦高救は、実家に戻って正そうと三浦家を飛び出します。
この時に自分の子・道寸(三浦義同)に家督を譲りますが・・・
三浦時高は激怒し、三浦高救・道寸父子を追放しました。
1494年秋、扇谷上杉家の相模で事態が大きく動きます。
重臣の大森氏頼、三浦時高が相次いで没し、上杉定正も落馬で没しました。
すると、出家していた道寸が挙兵し三浦家を乗っ取りました。
この時に三浦時高・高教が殺されたとする説もあります。
道寸は還俗し、三浦義同と名乗ります。
①の説の「戦火を逃れて」は、このクーデターを指します。
三浦時高の幼子が誰だったのかは、ググっても見つかりませんでした。
②の説は、1494年以降と見られます。
三浦高救は、三浦家を乗っ取った我が子を補佐したとされます。
安房に住んでいたのがそれ以前なのか、それ以後なのかは?です。
元々安房国は扇谷上杉家が守護を務める国でした。
扇谷上杉家出身の三浦高救に安房の領地があっても不思議ではありません。
ただ、この頃には里見家が扇谷上杉家勢力を安房から駆逐しています。
1486年に追放された時だとしても、状況は同じです。
百歩譲ったとしても、三浦高救は実家への想いが強い人物です。
戻ろうとした実家で酷い仕打ちを受け、逆ギレしたかもしれませんが。
家督を奪った三浦義同は、父の実家・扇谷上杉家と和睦しました。
さらに、安房国で勢力を拡大させた里見家と同盟を結びました。
三浦高救が安房に移り住んだのは、これ以降かもしれません。
同盟は、伊豆で勢力を急拡大させた伊勢宗瑞(北条早雲)対策とされます。
伊勢宗瑞は駿河国今川家の客将で、扇谷上杉家と協力関係にありました。
そして、扇谷上杉家と敵対する山内上杉家の伊豆国を攻めました。
伊豆を平定した伊勢宗瑞は、小田原の大森家を滅ぼして今川家から独立。
1512年、伊勢宗瑞は相模に出兵し、三浦義同の城を次々陥落させます。
弟の住吉城も落とされた三浦義同は、新井城に籠り抵抗を続けました。
こうして見ると、③の説はなかなか有力ですネ♪
伊勢宗瑞は三浦半島の付け根に、玉縄城を築きじっくり攻めます。
三浦義同は3年もの間抵抗を続けましたが、ついに力尽きました。
1533年、稲村の変に巻き込まれました
稲村の変はその名の通り、稲村城を舞台とした政変です。
主人公は里見義豊と里見実堯・義堯父子です。
里見家初の家督争いです。

従来の通説は、
・里見義豊が5歳の時に先代の里見義通が死去
・里見義豊が15歳になるまで叔父の里見実堯が当主を代行
・里見義豊が20歳になっても里見実堯が当主の座を譲らず
・怒った里見義豊が里見実堯を殺害
・里見実堯の子・義堯が親の仇を討ち、次の当主となった
というものでした。
しかし、史料を辿ると逆だったようで
・里見義通の次は、既に成人していた里見義豊が家督を継いだ
・里見義豊は、後北条家と接近しつつあった里見実堯を恐れ殺害
・里見義堯が謀反を起こし、里見義豊を討って家督を奪った
という内容です。
里見義豊は、後北条軍に備えていた叔父の里見実堯を稲村城で殺害。
正木通綱は稲村城を脱出し、山之城へ帰還しました。
長男・弥次郎は討たれ、次男・弥九郎も負傷しています。
追手の糟谷石見守が山之城を攻め、正木通綱は討たれてしまいました。
しかし、13歳の三男・正木時忠が糟谷石見守を討ち取り撃退。
翌年、里見義堯に従って里見義豊と戦い、兄とともに功を立てました。
1544年、兄の正木時茂は真里谷朝信から奪った小田喜城に移ります。
弟の正木時忠も、真里谷信興から奪った勝浦城に移りました。
こうして正木兄弟は、上総東部を中心に活躍することとなります。
この頃までに、山之城は廃城になったとされます。
所在地:千葉県鴨川市主基西 GPSログダウンロードページ
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