2014/08/31
神岡城/岐阜県飛騨市
神岡城跡にはカッコイイ模擬天守があります。訪問日は・・・2008年3月23日です。

▲西側から
神岡城へは何度か行きましたが、ちゃんと見れたのはこの時だけです。
国道41号を走りながら「どうやって行くんだろう?」と思っていましたが・・・

▲門と模擬天守
東側が平地なので、回り込めば特にどうという道ではありません。
東が台地になっていて、神岡城はその台地端、つまり崖っぷちにあります。
目の前まで来て見てみると、門と塀に囲まれた小じんまりとした感じです。

▲休館日でした
さて、記憶では確か3回目の訪問だった筈ですが・・・
初回は門が完全に閉まっていて中が見えず。
2回目は時間切れでアウト。
またしても返り討ちに遭いましたw

▲模擬天守
でも!
今回は門が開いていたので、模擬天守を撮ることが出来ましたヽ(´∀`)ノ
開いていたからといって登る訳でもないので、これで満足ですw

▲夜空に浮かぶお城
さて、おまけとして2回目の時に撮った写真をアップします。
まっ暗な街の中でライトアップされているので、遠くからでもよく見えます。
西側を走る国道41号からもよく見えるので、脇見運転にはご注意ください。
◆歴史◆
1564年、山県昌景の縄張りにより築かれました。
1563年、上杉輝虎(謙信)が飛騨に侵攻し、姉小路氏(三木氏)を降しました。
翌年、武田信玄がこれに対抗。
江馬氏を取り込むために山形昌景を派遣したのでした。
江馬氏当主・時盛は武田派でしたが、その嫡男・輝盛は上杉派でした。
山県昌景が攻めて来たことにより、江馬氏は武田派としてまとまりました。
神岡城は江馬氏の本拠地から近く、江馬氏を牽制する意味があったと思います。
(縄張りがバレバレなので、武田軍はいつでも攻め落とせます)
江馬氏が敵対すると姉小路氏は越中との物流が絶たれるため、挙兵しました。
武田信玄は山県昌景に命じて姉小路氏を攻め、飛騨一国を制圧。
さらに飛騨から越中に攻め込み、新川郡の椎名康胤を攻略。
この時に江馬軍と姉小路軍は先鋒を務めたとされます。
1573年に武田信玄が没すると、姉小路自綱は織田信長に近づきました。
一方の江馬輝盛は武田派だった父・時盛を暗殺して上杉謙信に近づきました。
1578年、上杉謙信が没すると、織田信長は越中・飛騨への侵攻を本格化。
姉小路自綱に命じて上杉方であった江馬輝盛と塩屋秋貞を攻めさせました。
1582年、江馬氏が姉小路氏により滅ぼされました。
1582年、本能寺の変後、江馬輝盛は姉小路自綱に決戦を挑みました。
「飛騨の関が原」と呼ばれる八日町の戦で、姉小路軍が勝利。
江馬輝盛は姉小路軍の銃弾により討死。
勢いを得た姉小路軍により江馬氏は滅ぼされました。
1585年、金森長近の城となりました。
姉小路自綱は織田家中では佐々成政に近い位置にいました。
越中制圧の際に佐々成政が先陣に居たためだったのでしょう。
羽柴秀吉が優勢になると、反抗的だった佐々成政が討伐されました。
姉小路自綱は時流を読むことに長けていたと思うのですが・・・
一緒に討伐されてしまいました。
姉小路氏討伐後、飛騨一国は金森長近に与えられました。
1615年、江戸幕府の命により破却されました。
一国一城令により、飛騨の城は高山城を残して廃城となりました。
1692年に6代藩主・金森頼時が山形上山へ移され、飛騨は天領となりました。
1970年、模擬の天守と城門が築かれました。
三井金属鉱業神岡鉱業所の創業100周年記念として建設されました。
天守は犬山城を模しているそうです。
内部は歴史資料館となっていて、鎧、刀剣、馬具などが展示されています。
天守(高原郷土館)の案内(2016/8/21確認)
・開館期間 4月1日~11月30日
・開館時間 9:00~16:30(入館は16:15まで)
・入館料金 大人460円、子供250円
※駐車場は無料です
所在地:岐阜県飛騨市神岡町城ヶ丘
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