2014/08/30
城端城/富山県南砺市
城端城は場所が特定されていないそうですが・・・善徳寺が城跡としてはかなり有力な場所なのだそうです。
訪問日は2012年8月6日です。

▲善徳寺本堂
北陸では浄土真宗が盛んに信仰されており、中でも富山の礪波地方はかなり盛んだそうです。それは戦国時代を通じて完全には潰されなかったからでしょうか。加賀は織田信長によりかなり派手に討伐されましたからね。越中でも一向一揆はあったのですが、戦った相手は主に越後の長尾氏(上杉氏)でした。

▲善徳寺の太鼓楼
礪波地方の武士も浄土真宗を信仰しており、一向一揆で陣頭に立つことが多かったそうです。その中には城端城主・荒木大膳も居ました。荒木大膳の出自はわからなかったのですが、この辺り一帯を治める大身だったようです。その荒木大膳の城だった頃から、この太鼓楼(櫓)はあったそうです。ただし、1849年に善徳寺が式台門を建立した際に今の位置に移されたそうです。

▲城端城の移築大手門(地図)
そして城端城のもう1つの遺構が、ちょっと離れた場所にも残っています。北陸道・砺波IC付近にある萬福寺の山門が、大手門を移築したものと伝わります。ただし、わかっているだけで二度倒壊しており、かなり改修が加えられています。二度目の倒壊の時、墨書から城端城の大手門だったことがわかったそうで・・・この倒壊前は茅葺きだったのですが、修復の際に元の瓦葺きにされ今に至っているそうです。
◆歴史◆
城端の荒木氏により築かれたと考えられています。
年代は不明ですが、土豪・荒木氏の城だったと考えられています。
1559年、荒木大膳は城地を善徳寺に寄進しました。
これは善徳寺のホームページに書かれていた年代ですが、1572年説もあるようです。ただし、この後も城端城は軍事拠点としての機能は持ち続けていたようです。荒木大膳は後に加賀の前田利家に仕え、1590年に八王子城で討死したそうです。
斎藤九右衛門が城主となります。
Wikipediaでは斎藤九右衛門と表記されていましたが、「九」が「久」なら斎藤信吉ですね。斎藤信吉だったという前提で・・・
斎藤氏は婦負郡南部を本拠としていました。地理的には城端の東隣に当たります。独立勢力でしたが、天文年間(1533~55年の間)に神保長職により制圧されました。
その後は上杉謙信に従っていましたが、1570年代前半から織田信長に誼を通じました。そして1578年、上杉謙信が没すると、はっきり織田方として行動するようになります。この頃は上杉家中で家督争いがあり、越中での影響力が弱まりました。丁度その頃加賀を制圧した織田信長が、本格的に越中に侵攻し始めました。斎藤信吉が城主となったのは、この頃のことと思われます。
本能寺の変後、佐々成政の城となりました。
1582年、本能寺の変で織田信長が自害すると、斎藤一族は上杉景勝に寝返りました。そのため、越中を支配していた佐々成政に攻められ、斎藤氏は没落しました。斎藤氏を追放した後、佐々成政の家臣・河内才右衛門が城主となりました。
1585年頃廃城になったと考えられています。
織田信長亡き後、羽柴秀吉が主導権を握るようになりました。越中を治めていた佐々成政は秀吉とは仲が悪く・・・柴田勝家が討たれ、徳川家康が懐柔された後、本格的に討伐されました。新川郡を残して領地を没収されたため、城端の地は加賀の前田利家に与えられました。この頃に城としての役割を終えたと考えられています。
所在地:富山県南砺市城端西上
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