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鶴ヶ城/富山市

鶴ヶ城は別名・羽根城とも呼ばれており、説明板があるだけです。
訪問日は2012年8月7日です。

鶴ヶ城/説明板

写真はこれ1枚きりです。何せ、道端にぽつんとあるだけなのでw当時の私がこいつを目指していたとは考えにくく・・・移動中にバイクを停めた時、偶然見つけたものと思われます。

なぜ自分の行動なのに推測なのか?・・・それは、当時持ち歩いていた資料がもう無いからです。富山の後で攻めた飛騨のは見つかったんですけどねあせる


◆歴史◆(頑張った割にテキトーです)

あまりにマイナーなせいか、ググっても説明板のコピペしか見つかりませんでした。しかし!分からないと無駄に燃え上がるのが私の悪い癖。何日も燻った成果を以下に記します。説明板に書いてある年代と出来事を太字で、あとは勝手な想像を細字でこっそりw

1538年、富崎城とともに落城しました。

いきなり落城から始まります。この年代は神保氏と椎名氏が和睦して平和だった、というのが表向きの歴史です。しかし、この説明板ではその期間に落城です。一体何があったのでしょうか?

越中の歴史上、影響力がとても大きいのが越後守護代・長尾氏です。この年代には越後で国人領主による内乱があり、長尾為景は各地を転戦していました。越後の内乱に呼応して、反越後勢力が蜂起したのではないでしょうか?

城主の大間氏は神保氏の家臣でした。神保氏は長尾氏に従うフリをしつつ、乱の旗色を窺っていたのかもしれませんね。

1559年、大間安政が鶴ヶ城を再築しました。

椎名康胤が歴史に登場し、神保長職に対抗し始めた頃です。神保長職は近くの富崎城を再築し、大間氏も鶴ヶ城を再築しました。神保軍は本格的に椎名領に侵攻したのですが・・・

椎名康胤は長尾景虎(のちの上杉謙信)に援軍を要請し、神保氏は降伏しました。しかし、神保氏は椎名領への侵攻の手を緩めず、翌年にも松倉城を包囲しました。このため長尾景虎は神保氏を本気で攻め、1562年に降伏させました。

1566年、上杉軍に攻められ落城しました。

この頃の神保氏は、上杉輝虎(のちの上杉謙信)に降伏して大人しかった筈です。でも、鶴ヶ城は他のお城の歴史を調べても出てこないような年代に落城しています。にわか越中おたくが暇に任せてググッた程度では、殆ど何も分かりませんでしたが・・・

近くのお城でググってみると、水越氏の名前が出て来ました。水越勝重は富山城を築いた神保氏の重臣で、神保長職と同一人物とされた時期もありました。今は完全に別人ということで決着しているそうですが・・・

本人なのか一族なのかは不明ですが、水越氏は一向一揆に加担していたようです。時期と出来事から推測すると、恐らくこの一向一揆に大間氏も参加していたのでしょうね。鶴ヶ城を攻め落としたのは上杉弥五郎だそうで、ググッたら上条政繁のことでした。上杉軍との戦いに敗れた大間安政は、「帰農した」と書かれていました。鶴ヶ城はこの時に廃城になったものと思われます。


所在地:富山市婦中町羽根

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Author:なぽ
故郷にはお城があり、小さな頃から何となくお城が好きでした。若い頃から旅が好きなので、旅行ついでに立ち寄るといった感じでした。

しかし、本格的に城をメインに旅を始めるとハマってしまい・・・。今では道無き山まで歩き回るようになりました。もう、殆どビョーキですw

全国津々浦々見てやろう!と意気込んでいましたが、訪ねる基準が年々変化しており、始めた頃に回った地方がかなり手薄になりました。でも、あまりにもマイナー過ぎる城跡まで回るのもどうかと思いつつ、通りすがりに「〇〇城跡→」なんて案内があると、ついつい足が勝手に動いてしまいます。

書き始めるとついアレコレ気になって調べまくり、遅々としてブログが進みません。こうしている間にも訪ねっ放しの城跡がザクザク溜まる一方で・・・。書き方もちょっと考え直さないと、死ぬまでに書ききれないとマジでびびっています。

おっと、またつい長くなりましたが、基本スタンスは「道案内 & 見所案内 & 歴史も!」な欲張りブログを目指しています。ここでお友達を作るつもりはありませんので、ググって出て来てちょっと気になったら読んでやって下さいませ。

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