2014/07/21
弓庄城/富山県上市町
弓庄城は周りを湿地に囲まれた平城でした。訪問日は2012年8月7日です。

▲弓の里歴史文化館
弓庄城跡へは弓の里文化会館を目指します。道順は・・・文章で書く自信ナシ。下の地図をご覧下さい(^_^;)
城跡を意識したであろう建物なので、近くまで来るとすぐにわかります。ココは弓庄城についての展示がタダでされているそうなのですが・・・面倒臭がりな性分なので、中には入っていません


▲城址碑
さぁ着いた。で、城址碑は???とキョロキョロするも見当たらず。あるはずなのになぁ、なんて諦め掛けた時に見つけました!正面の畑のど真ん中www
城址碑は本丸にあり、ココは圃場整備の時にも手を加えられなかったのだとか。・・・とついさっき知った事を、さもそれらしく書いたりしてます。現地で説明板読んで見回してもそんな風には見えませんでしたが。
Google Mapで航空写真を表示して鳥ちゃんになった気分になると・・・周りの田んぼは綺麗な長方形なのに、城址碑の周りだけ形がいびつです。まぁ、それでも遺構らしきものも無く、すでに城跡としては風化してしまっています。

▲説明板
城址碑の近くにあった説明板です。後ろの土の盛り上がりが何となく・・・見えませんよね

◆歴史◆
永正年間(1504~21年の間)に土肥政道が弓庄城を築きました。
越中土肥氏は相模国の出で、鎌倉時代に土肥頼平が堀江荘の地頭となりました。その時期は建長の頃(1249~55年の間)とされています。相模の土肥氏は没落しましたが、越中の土肥氏は戦国時代まで続きました。土肥氏の一族には安芸国に移った者もいて、小早川氏も土肥氏の一族です。
越中の土肥氏は新川郡西部に勢力を持ち、椎名氏や神保氏からは独立した勢力でした。当時は越中守護・畠山尚順の勢力が衰え、神保慶宗と椎名慶胤が台頭していました。そこで畠山尚順は越後守護代の長尾為景に救援を求め、戦となりました。土肥氏も越中方として戦っており、弓庄城はこの頃に築かれました。この戦いは越中方が大敗し、土肥氏も大打撃を受けたそうです。
1543年、越中大乱が始まりました。
越中に睨みを利かせていた越後の長尾為景が没しました。そのため、神保長職は富山城を築いて椎名長常を圧迫するようになりました。この戦では土肥政繁は神保長職に味方しました。
1560年、上杉輝虎(謙信)が神保長職を攻めました。
神保長職は再び椎名領へ侵攻するようになりました。おそらくこの頃に椎名康胤が家督を継いだものと思われます。椎名康胤は越後の上杉輝虎に救援を要請し、神保軍は一旦退きました。
1562年、上杉輝虎が神保長職を降伏させました。
それでも神保長職の椎名領侵攻は収まらず、ついには椎名氏の本拠・松倉城を囲みました。このため上杉軍は再度越中に攻め込み、神保氏の本拠・増山城を攻め落としました。神保長職は降伏し、以後上杉氏に従うようになりました。
1578年、上杉謙信死去
越後では上杉景勝と上杉景虎が家督争いを始めました(御館の乱)そのため、西から織田信長が越中に侵攻するようになりました。
織田軍に降伏~廃城
1581年8月、佐々成政に包囲されましたが、この時は守り切っています。
1582年4月、佐々成政に再び包囲され、降伏しました。
1582年6月、本能寺の変で織田軍が一時撤退。土肥政繁は上杉方に復帰しました。
1582年9月、再び佐々成政に包囲されますが、佐々軍は撤退しました。
1583年8月、佐々成政が4つの城砦を築いて包囲。土肥政繁は開城し、糸魚川城へ退去しました。
この時に弓庄城は廃城になったと思われます。その後、上杉軍の先鋒として佐々成政と戦い、功も挙げましたが・・・土肥政繁は旧領を回復できず、越後で没しました。
所在地:富山県中新川郡上市町舘
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