2014/07/20
舟見城/富山県入善町
舟見城跡は舟見山自然公園となっています。訪問日は2012年8月7日です。

▲城郭風建物
ココも公園になっていて、城跡まで道が通っています。そのどんつきに駐車場があり、真正面に写真の建物があります。城らしくないを通り越して、可愛らしい建物ですw

▲ざっくりとした説明板
この建物の真正面に小さな白い板が1枚。ざっくりですが、歴史が記されています。・・・といっても殆ど何も分かっていないのですね


▲建物側から見た主郭
城跡は広い平地に見えますが・・・公園として整備した時に堀やら土塁やらを破壊したようです。ほんのちょっと前の時代に全国各地であった悲劇ですねT_Tこの「広場」も堀切で分断されていたのを埋めちゃいました。それでも1つだけ、可愛い建物の左側(西)に堀切が残っているそうです。
◆歴史◆
鎌倉時代はじめ頃に築かれたと思われます。
宮崎太郎の嫡男・入善小太郎により築かれたとされています。宮崎太郎は平安末から鎌倉時代はじめ頃の人物です。1182年に北陸宮を迎え、木曽義仲のもとで活躍しました。入善小太郎はその嫡男なので・・・鎌倉時代ですね。
木曽義仲が討たれた後、宮崎太郎は巴御前とともに信濃国木曽へ逃れました。しかし、新川郡一帯は1221年の承久の乱までは宮崎氏が支配していました。そのため、舟見城もこの頃までに築かれていたと思われます。
その後の歴史がサッパリなのです・・・
上杉謙信が越中に侵攻し、舟見城が落城しました。
あちこちに「上杉謙信に攻められ落城」と書かれています。その年ですが、弘治年間(1555~58)だったり、永禄年間(1558~70)だったりします。
弘治年間(1555~58)だと、上杉謙信はまだ「長尾景虎」を名乗っていました。時期的にも越中に攻め入る理由も無いような気もします。椎名康胤の援軍として神保長職を攻めたのが1561年以降なので。地理的にも椎名氏の領内なので、舟見城は攻めないでしょう。
どちらかというと永禄年間(1558~70)の方が可能性が高いような気がします。この期間なら1568年に椎名康胤が武田信玄に寝返り、上杉軍が椎名氏を攻めているからです。上杉軍は魚津城を攻め落として河田長親が城主となり、その後は松倉城を攻め続けています。
落城時の城主は「飛騨守五郎左近尉」という人物です。ググってみると、十三寺の仏像を守本尊としていたそうです。この仏像は平安時代末期の作なので、鎌倉時代以降の人ですね。・・・てなレベルしかわかりません

飛騨守五郎左近尉が落城後に身を投げたという「飛騨ヶ淵」ですが・・・場所がどこなのかわかりませんでした。
所在地:富山県下新川郡入善町舟見
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