2022/03/28
久留里古城/千葉県君津市
久留里古城は、久留里城の前身とされる山城です。訪問日は2022年1月8日です。

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久留里古城へは、久留里城側と真勝寺側とから行くことが出来ます。
両者を結ぶ山道がありますが、整備状況はあまり良くありません。
久留里城側からは、駐車場入口のトンネル手前1から山に入ります。
神社2脇から尾根に出て、いくつかの堀切を経て主郭に至ります。
主郭から真勝寺に下る道もありますが、北の尾根にも堀切が連なります。

1 登城口
登城口は、久留里城駐車場に向かうトンネルの手前左側です。
入口脇には、城山神明社の由来と忠告板があります。
忠告板は「神社より先は歩道として整備されていません」とあります。
バッチ来いです(*´ω`*)

2 城山神明社
登城口から登った所にある城山神明社です。
この神社は1745年、久留里藩主・黒田直純により創建されました。
名前が気になりますが、三河国黒田郷出身の家柄です。
とは言え、3代養子が続いた後の未亡人を娶り黒田家を継いだ人物です。
おかげ様で、古城へ行きやすくなりました^^

3 神社裏の尾根
神社脇から少しだけ登ると、左右に伸びる尾根上に出ます。
右が久留里城で、左が古城です。
右に行っても堀切が見られますが・・・
この日は雪が残っていたので、JRで来ました。
運悪くその列車が車と衝突し立往生したので時間が無くなり・・・
久留里城方面はキャンセルです


4 最初の堀切
古城に向けて歩き出すと、すぐに堀切が現れます。
余りにご登場が早かったので意外でした。
古城~久留里城間の尾根には、堀切が沢山あります


5 2つ目の堀切
すぐに次の堀切があり

6 尾根道
右に伸びる尾根に出ます。
途中で左へ行くよう案内が出ますが・・・
城域の細尾根に何かを嗅ぎつけた城キチは、そのまま真っすぐ進みます。

7 尾根先端の曲輪
この尾根はハズレだったようで、堀切は無し。
でも、先端部に曲輪らしきまとまった平地が見られました。

8 堀切
案内に戻り再び古城方向へ歩くと、再び堀切に遭遇ヾ(*´∀`*)ノ

9 二重堀切
そのすぐ先には、ラクダさんのような二重堀切もありました。

10 堀切
さらに進むと、幅の広くなった尾根を分断する大きな堀が!
形状的には堀切-竪堀のコンボです。

11 二郭虎口
堀切の堀底に沿って登ると、両側が複雑な形になっています。
複雑すぎて現地では構造を把握出来ませんでしたが・・・
手前側のゴチャゴチャが、二郭の虎口だったようです。

12 主郭の案内
二郭虎口の真正面に、この案内が落ちていました。
撮りやすいよう置きましたが、足元がとても寂しい感じです。

13 主郭虎口
案内の上は、高台上に向かって一直線に地面が掘られています。
竪堀っぽく見えますが、これが主郭の虎口です。

14 主郭内部
主郭は土塁等は無く、プリンの頂上みたいな感じです。

15 堀切
主郭を1周堪能したので、虎口から堀切へ。
そして奥へと進むと、反対側にも大きな堀切があります。

16 虎口
堀切というか巨大横堀というか、その北側に開口部があります。

17 北側の尾根
開口部右側から奥へ行けそうでした。
細尾根っぽかったので、ちょっと探検のつもりで奥へ進みました。

18 堀切
すると、この細尾根にはバッチリ堀切がありました


19 曲輪
堀切の先には、しっかり削平された空間もあります。

20 堀切
その先にも、かなり大きめの堀切がありました。
かなり歩きキリが無さそうだったので、ここでUターンしました。

21 真勝寺側の堀切
そして今度は真勝寺側へ。
主郭北側の堀切から間もない所に堀切がありました。
ここ、意外にも堀切だらけだったんですね(*´▽`*)
この先は尾根を下る感じに見えたので、古城散策はここまでとしました。
◆歴史◆
1456年、武田信長により築かれたとされます
武田信長は甲斐出身で、古河公方に仕え上杉方の上総を攻めました。
その結果上総国守護代に任命され、真里谷城や庁南城などを築きました。
久留里城もこの時期に築き、三男(四男?)の武田信房を城主としました。
武田信房がどのような人物だったのかがよくわからず。
武田信長の嫡男・伊豆千代丸ではないか?とする説もあります。
伊豆千代丸は、甲斐での死亡説もあります。
天文年間(1532-55)初期に、里見家の城となりました
当時の城主は武田一族の勝真勝です。
勝真勝も武田一門であること以外、どの系統の人物なのか不明です。
今も城の北にある真勝寺は、1540年に勝真勝により開基されています。
1534年、真里谷恕鑑の没後、真里谷家で家督争いが始まります。
この争いに乗じて、里見義堯が上総へ侵攻。
・・・したのは、1538年の第一次国府台合戦の後でしょう。
それまでは、里見家も真里谷家も小弓公方に従っていましたので。
久留里城を守っていた勝真勝は、里見義堯に城を明け渡しました。
以後、里見義堯が自身の居城とし、現在地へ移転しています。
その後の古城の位置づけがわかりませんが・・・
現・久留里城の手前に位置するため、出城として使われたかもしれません。
所在地:千葉県君津市久留里 GPSログダウンロードページ
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