2014/07/13
舛方城/富山県魚津市
松倉城の支城の1つ、舛方城の登城記です。訪問日は2012年8月7日です。
松倉城は越中国新川郡の守護代・椎名氏の本拠地でした。その周辺には支城や砦がいっぱいありました。そいつらを色々調べて地図に載せてみると・・・松倉城の西側に南北に連なる支城群があることがわかります。何となくですが、松倉城を中心とした惣構えのように見えます(^_^)

▲駐車場にて
当時の私は、そんな事など露ほども考えずに城巡りをしていました。ヘアピンカーブの膨らみを利用した駐車場には写真のモニュメントが。単純にこういうのを撮って回るという感じでした。それはそれで楽しいんですけどね。ただ、今考えると少し勿体無い気がします


▲二の丸
林道沿いに城への案内があり、すぐに二の丸に至ります。二の丸は本丸より一段低く、周りを囲むような感じになっています。

▲二の丸から本丸を見上げる
そこから登城路に沿って本丸を見上げるのですが・・・今見るとこの登城路は重機で無理やり造った感じがしますね。縄張図見てると、本来は南へ回り込まないと本丸には上がれないような気が・・・
でも!楽に登れるのは嬉しいです


▲本丸
本丸は山の上にあるとは思えない位の広さでした。縄張図を見ると、長辺はだいたい50m位あります。これだけ広いと大勢の兵士で守れますね!

▲本丸を囲む土塁
さらに、本丸は縁を土塁で囲まれていました。二の丸は帯郭状で本丸への通路は1箇所だけなので、上から矢を浴びせる造りですね。そういえば、林道は更にその外側を囲むような感じです。この林道が当時からある道なのかどうかわわかりませんが・・・1段1段上から攻撃できる造りになっているようです。

▲城址碑
さてさて、モニュメント好きの私にとっては嬉しい城址碑です。舛方城を調べるとどこのサイトにも載ってるヤツです。もちろん、私も載せちゃいますヽ(´∀`)ノ

▲説明板
更にはイラストや縄張図まで描かれている説明板もあります。ここも割りとメジャーなのでしょうか?遺構はバッチリなので、来る人は多いのかもしれませんね。

▲縄張図(加工してます)拡大図
そしてお待たせしました!説明板に載ってる縄張図です。堀切、石積み、土塁に帯郭、畝状竪堀と遺構がたっくさん載っています!
・・・当時の私が如何に遺構音痴だったか身につまされます。これだけ色々あって、撮ったのが土塁だけですからね

なるべく大きく載せたかったので、方位と定尺の位置はズラしています。
◆歴史◆
応永年間(1394~1428年の間)に築かれたとされています。
松倉城が築かれたのが1336年頃とされているので、だいぶ後に築かれたのですね。畠山基国が越中守護となってからそんなに年月が経ってない頃です。
この直前と言っても10年程前ですが、椎名氏は越中守護・桃井直常に味方していました。桃井氏は上野国出身で、将軍・足利氏の一門です。この時代、足利尊氏・義直兄弟の争いである観応の擾乱が繰り広げられていました。桃井直常は足利義直派であり、同じ足利一門の斯波高経と対立していました。
その桃井直常が足利尊氏・斯波高経派の能登守護・吉見氏頼に大敗したのが1371年。桃井直常は味方である飛騨国・姉小路氏のもとへ逃れた後、行方知れずとなりました。その後の越中守護には斯波高経の子・斯波義将が就きましたが・・・今度は佐々木道誉との権力争いに敗れ、斯波高経・義将父子は失脚しました。畠山氏が越中守護となったのはその頃で、おそらく椎名氏も復権したものと思われます。
・・・あっ、長くなりそうw
色々調べてわかっているのは・・・
椎名氏の時代の城主は小幡九郎、
佐々氏の時代の城主は佐々新左衛門、
前田氏の時代の城主は竹田宮内だったということ位です。
小幡氏の詳細は不明ですが・・・
・椎名氏の一族、らしい。
・椎名康胤の家老を小幡九助と神前和泉守が務めていた。
・椎名慶胤の弟・神前和泉守の子が小幡九助の養子となり、小幡九兵衛と名乗っていた。
・小幡九兵衛は椎名氏滅亡後、加賀前田家に仕官した。
くらいしかわかりませんでした。舛方城は位置的にも松倉城の大事な支城なので、城主はやはり一門だと思います。
佐々新左衛門は・・・
果てしなく続きそうなのでこの位にしときます。ここまで来るのに丸一日掛かったので

舛方城は松倉城のすぐ近くにある支城なので、歴史は大体同じと思われます。詳しくは松倉城のブログを参照下さい

所在地:富山県魚津市舛方
富山県の城跡/なぽのホームページを表示 |
コメント