2014/07/12
松倉城/富山県魚津市
久しぶりの登城記は、小菅沼城から登った松倉城です。訪問日は2012年8月7日です。
私は小菅沼城跡から案内に導かれるがままに辿り着きました。下の図で緑で示した道です。この道はとても細くて、クルマ同士の離合がままならない程です。

拡大図
一般的には角川ダムの東岸からぐるっと北側を回り込んで登るようです。図の赤い線がそのメインルートです。

▲駐車場にある石碑
舗装された登城路は、本丸のすぐ下まで整備されています。私みたいな非山キチにはとっても嬉しい事です


▲主郭と二ノ曲輪を隔てる堀切
駐車場から主郭へ上がる途中というか、すぐに現れるのがこの堀切です。何時間もひぃこら息を切らして登ってきたら、これ見て涙を流す位感動するかも。・・・楽して登っても、それはそれでとても嬉しいです^-^

▲堀切を振り返って見た所
ちょっと登った所からこの堀切を振り返った所です。まぁ、撮ったのは帰り際に下る時でしたが。駐車場からすぐだというのがお分かり頂けると思います。

▲主郭
そして・・・あっと言う間に主郭に到着です。山城の醍醐味が台無しじゃないか、と仰る方もいらっしゃるかとは思いますが・・・一番上の図を見て下さい。そういう方の為っぽい道もあります。きっとこの道に何かしら防御の仕掛けがある、かもしれません!主郭はかなりとても広いです。流石は越中随一の山城です!(それだけかい


▲城址碑
そんな本丸に城址碑がありました。なんだか・・・平和な感じの文字です。モニュメント大好きなので、無問題ということでw

▲説明板
そのほかにも、詳しい解説&図が載った、気合のみなぎったヤツもあります。やっぱりメジャーな城跡はカネの掛け方が違いますね!

▲城からの眺め
そして、山城恒例の写真です。もはや記憶も薄れてどこからどっちを撮ったのかすら覚えていませんが


▲二の曲輪方面への道
さてさて、主郭を堪能したので堀切の向こう側を順に見て回ろう!というのは最近の私の流儀です。2年前の私はというと、ようやく土塁や堀切に目覚めようかという段階。モニュメントいっぱいの主郭だけで満腹になったようで・・・ここで写真が終わってます┐(´∀`;)┌
◆歴史◆
1221年、承久の乱の後、北条朝時の被官として椎名良明が越中・新川郡に赴任しました。この頃はまだ松倉城は無かったようです。
1331年、名越時有(北条朝時の子孫)が討伐され、井上利清が守護となりました。井上氏は越中守護・名越氏(北条朝時の子孫)の有力な家臣でした。しかし、元弘の乱で反旗を翻して名越時有を討伐し、越中守護となりました。
1336年、南北朝時代が始まり、この頃に築城されたと考えられています。
椎名良明の孫・頼胤により新川郡一帯に城砦が築かれました。椎名頼胤は椎名孫八と名乗り、新田義貞とともに南朝方として戦いました。
1338年、北朝方の井上利清と戦い、椎名頼胤は松倉城に篭城しました。
井上利清は東大寺領を侵食したため、1344年に越中守護を罷免されています。
1344年、桃井直常が越中守護となりました。桃井直常は足利氏の一族で、観応の擾乱では足利直義派の有力武将として活躍しました。足利直義が没すると一時行方を眩ませましたが、関東公方・足利義基の庇護を受けました。足利義基が没すると上洛して足利義詮に帰順し、幕政に携わりますが・・・斯波高経、義将父子と対立するようになり、反幕府的な行動をとるようになります。
1369年、桃井直常が松倉城に篭城しました。
1371年、桃井直常は幕府方の能登守護・吉見氏頼と五位荘(高岡市)で戦って敗れました。桃井直常は味方の飛騨・姉小路氏のもとへ逃れた後、消息が分からなくなりました。斯波義将が越中守護となりました。
1380年、畠山基国が越中守護に赴任。椎名氏は畠山氏の重臣として名を連ねています。
1454年、畠山氏の家督争いで、椎名氏は畠山弥三郎を推し、義就派と対立。応仁の乱の遠因となりました。
1467~77年、応仁の乱。乱で主家・畠山氏が弱体化すると、越中では守護代の椎名氏と神保氏の争いが始まりました。椎名氏は越後守護の長尾氏、神保氏は能登守護の畠山氏を後ろ盾としました。
1480年代、一向一揆が越中でも起こるようになりました。
1510年代、越中守護・畠山尚順の勢力が衰え、神保慶宗の勢力が強大になりました。神保慶宗は畠山尚順からの独立を目指すようになりました。そのため、畠山尚順は越後守護代・長尾為景に救援を求めるようになりました。また、椎名慶胤は一向一揆への対応で長尾為景と対立し、神保氏に味方するようになりました。
1520年、越後守護代・長尾為景が越中を攻めました。
8月に越中連合軍は長尾軍に敗れました。さらに12月の新庄合戦で越中勢が大敗し、神保慶宗は自害、椎名慶胤も討死しました。畠山尚順は長尾為景を新川郡の守護代にしました。しかし、その翌年には長尾為景が椎名長常を守護代とし、旧領を安堵しました。椎名長常は椎名慶胤の兄弟と考えられています。
1530年、神保長職が神通川を越えて椎名領を侵食しました。神保氏と椎名氏の越中での覇権争いが再発しました。神保氏が優勢で、1537年に畠山氏の調停により常願川が両氏の境となりました。神保長職は富山城を築き、椎名氏に対する前線拠点としました。
1559年、神保長職が松倉城を攻めました。
椎名長常は神保氏との間で屈辱的な和睦に堪えていました。神保氏に対抗する姿勢を見せ始めたこの頃に、椎名康胤が家督を継いだものと思われます。椎名康胤は越後の長尾景虎から婿養子を迎えて結びつきを強めました。この年は長尾景虎の仲裁によって神保氏は兵を退きましたが・・・翌年また神保軍が椎名氏を攻めたため、長尾軍は本格的に神保氏を攻めるようになりました。
1562年、能登守護・畠山義続の仲介により、上杉輝虎と神保長職は和睦しました。これにより神保氏による椎名氏への圧迫は収束しました。上杉氏を後ろ盾に、椎名康胤は越中統一の野望を抱くようになったとされます。神保家中では親上杉派の小島職鎮が台頭するようになりました。
1566年、能登で守護・畠山義綱が重臣達により追放されました。畠山義綱の能登復帰を神保長職が支持しました。さらに、上杉輝虎もこの動きに同調したため、椎名康胤も同調せざるを得ませんでした。
1568年、椎名康胤の松倉城が上杉軍に攻められました。
これは椎名康胤が武田信玄の調略により寝返ったからです。信玄はん、抜け目が無いですねwこれに激怒した上杉輝虎は松倉城を包囲するのですが・・・武田信玄が越後国境へ進軍し、飯山城を攻めました。さらに、越後では本庄繁長が謀反を起こしたため、上杉軍は撤退しました。
1569年、ふたたび上杉軍が攻め寄せました。
この頃の上杉輝虎は大忙し。武田信玄をはじめ、越後は敵対勢力に囲まれていました。関東管領となってからは後北条氏侵攻に対する援軍要請も重なり・・・毎年のように関東・川中島・越中へと出兵していました。この年も松倉城は上杉軍に包囲されましたが、武田軍が上野へ進軍したため撤退しました。
1571年、上杉軍により松倉城が攻め落とされました。
椎名康胤は一向一揆を頼って礪波へ落ち延びました。この年、神保長職が没し、反上杉派筆頭の神保長城が家督を継ぎました。神保氏は一向一揆と和睦し、越中は反上杉一色となりました。椎名康胤の遺領は上杉家重臣・河田長親に与えられ、越中侵攻の前線基地となりました。
1576年、上杉謙信が本格的に越中へ侵攻しました。この時に神保長城、椎名康胤ともに城を攻め落とされ自害したとされます。
1578年、上杉謙信が没し、家督争い(御館の乱)が起こります。越前・加賀を平定した織田軍の越中侵攻がこの頃本格化します。越中を任されていた上杉家の河田長親は、織田方からの誘いを断り抵抗を続けました。
1581年、織田軍・佐々成政による越中攻略が本格化しました。
越中の上杉軍の中心人物である河田長親が松倉城で没しました。求心力を失った上杉方の国人衆は、次々と織田方に寝返るようになりました。ただ、織田信長は彼らを信用しておらず、近江に招いて謀殺するなどしました。
1583年、佐々成政が越中を平定
前年の本能寺の変により一時織田軍は撤退しましたが・・・事態が落ち着くと、松倉城をはじめ魚津城などを攻め落としました。
1584年、佐々成政が能登の末森城を攻めました。前田利家の加賀と能登を分断するのが目的だったようです。
1585年、豊臣秀吉により佐々成政が討伐されます。討伐後、佐々成政は新川郡を残して領地を没収されました。成政自身は大坂から出ることを許されず、松倉城には城代を派遣して治めました。
1587年、佐々成政は九州征伐での軍功により肥後一国が与えられました。越中・新川郡は前田利長に与えられたと思われます。ここら辺は少しあやふやですが・・・この頃から新川郡の中心は山城の松倉城から平城の魚津城に移ったようです。
慶長年間(1596~1615年の間)に廃城となりました
所在地:富山県魚津市鹿熊町
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